作品

2019年05月18日

 まず最初にお断りしておかないといけないことがあります。それはこれからお話しすることで決して誰も自分の人生を縛られることはないということです。それはもちろん、もしかしたら私かもしれないあなたもです。だからくれぐれも、よろしくお願いしますね。


 アルバムとか懐かしい動画の入ったディスクとか、ずっと仕舞い込んでいたものを久々に引っ張り出すと、ついつい長々と見入ってしまいます。おかげでなかなか部屋の片付けが進みません。というのも、私たち完全に日本を離れることになりましてその準備をしているところだったんです。一緒に暮らせることになった母を迎えに、私は久しぶりに日本に帰ってきました。

 亡くなった父には申し訳ないのですが、ただ生前父は口癖のようにいつでもどこへでも行くのはあなたの自由なんだからねと言っており、またそれが私の何事にもあまりとらわれない自由な性格を育てたんだと思っていますので、きっとこのことも許してくれるだろうなとは思っています。

 遺灰は遺言と言いますか常々本人が言っていた通り、生まれ育った東京のあちこちに少しずつ撒いたのですが、一部は母と私が持っておりまして、それを持参するので父も一緒に行くと言えば一緒に行くということにはなるかもしれません。

 もちろんこのアルバムもハードディスクも一緒に持っていきます。一応整理はされているのですが、年代の順序が逆だったり画像と動画が混ざったりしていて、その辺は父らしくてちょっと懐かしい気はします。

 ハードディスクには携帯で撮った私の写真は全部残してあるんじゃないかと思うくらいの枚数の写真や動画が入っていて、中には私が生まれる直前のお腹の大きい母や生まれた日の病室の動画もあったりして、父はそれをたまに私に見せたりしていたのですが、私は自分が生まれる前のそういう写真や動画をどうやって見ていいのかがちょっとよく分からなくて、だからそういうのを見るのって実はあまり得意じゃありませんでした。

 アルバムには神奈川の神社で撮って頂いたものもあって、確かこの三歳の七五三の時の写真くらいまでが東京にいた頃のもので、それからあとがたぶん岡山なんだと思います。四歳の時に岡山に来た私に東京の記憶はほとんどないので、生まれも育ちも私は岡山のつもりでいるのですが、父はよく私にあなたは東京で生まれたんだからねと言ったり、なにかあればすぐ東京を引合いに出して、岡山の人はああだとかこうだとか岡山のことをあまりよく言わなくて、そうは言われても私は他と比較もしようがありませんし、あまりいろいろ言われるとかえってそれが嫌だなと感じて、気持ちのどこかで私も東京生まれというのはあったのですが、そういうところは正直ちょっと好きじゃありませんでした。

 ただ今思えば、なんの縁もゆかりもなかった岡山に私を必死の覚悟で連れてきて、母もそうですけど、言うに言われぬ苦労をして私を育てた父からすると、岡山に来てからも東京を名残惜しむ思いがなかなか消えなかったのは仕方ないことかもしれないし、またそれをせめて私くらいは分かってあげないといけないかもしれないなと思ったりはします。

 父も母も四十歳をとうに過ぎてからの子どもだった私は、他の子よりは少し早めに親と過ごせる時間について思いを巡らせたということはあったかもしれません。とはいっても幼い私にそれを自分で解決することはさすがにできませんでしたので、それを素朴な疑問として何度も何度も父や母にぶつけたことがありました。

 たぶん六歳かそのくらいの頃から、時々ちょっと私怖くなる夜があって、ベッドに入って本を読みながら何度かシクシク泣いたことがあるのですが、ある時こんなことを聞いたことがありました。


「お父さん、人間は歳を取ると死んじゃうの?」

「え、なになにどうした?」

 父はそう聞き返してきました。

「お父さんもお母さんもいなくなっちゃうの?あたし独りになるの?独りなんてイヤだよ、あたしまだ六歳だよ、もお、やだよお」

 私たしか泣きました。

 父は、

「大丈夫、なに言ってんの」

 と少し語気を強めて応えました。

「大丈夫、独りになんかならないよ。ちょっとお話聞いて」

 そう今度はやさしく父は言い、私はそのあとの言葉を待ちました。

「いいかい、よく聞いて。順番なんだなあ。つなげるって分かる?すっごく歳を取ったおじいさんとかおばあさんはね、いろんな楽しいこととか嬉しいこととかいろんな良かったことを経験したの。経験て分かる?うん、いろんなことしたの。いっぱいいろんなことするとね、今度は自分はもういいから自分の子どもとか孫におんなじようにして欲しいと思うんだな、これが。だから、交代して、今度は若い人にやって欲しいって思うわけ。だから自分は天国行っちゃって交代するんだな。でも独りになる訳じゃないよ。もしかして、国語の教科書に出てきたお話で犬が死んじゃったから、だからそう思ったの?そうかそうか、でも大丈夫じゃん、ずっとずっと大好きだよって言ってたでしょ。ずっと大好きでいられるんだよ、大丈夫、ずっとずっとだから」

 父の言う通り、私は国語の教科書の話を思い出していました。

「だからね、いなくなってもここにみんな来るんだよ、ここにいるのずっと。ね、だから大丈夫でしょ。姿は見えないけど独りじゃないじゃん。だから大丈夫大丈夫」

 そう言いながら父は軽く私の心臓のあたりをコンコンと叩きました。

 私はうんと頷きました。

「独りになんかならないから。一緒よ、一緒。六歳でしょ。独りになるわけないじゃん。お父さんもお母さんもいなくならないから心配しなくていいよ。大丈夫大丈夫」

 いなくならない。

「お父さんはね、あなたが直ぐなんでも言ってくれるから安心なんだ。大丈夫。心配なこと、悲しいこと、イヤなこと、恐いこと、辛いこと、なんでもあったら言っていいんだよ、全部お話してあげる。全部大丈夫だから。なーんにも心配しなくていいって知らないでしょ、心配しなくていいの、全部大丈夫だから。なんでもお話してあげる」

「大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。ぜーんぶ大丈夫なようになってるの。だからなんでもお話すればいい。いいかい」

 涙を拭って私はまた頷きました。

 こっちおいでと言う父の布団に、私は宇宙にでも飛び出すような勢いで潜り込みます。

「本読もうよ、本を」

 父はいつもの迷路の本を取り、いつものように上下逆さに持って文字を逆に読みだすので、私も言い返します。

「逆だよ!」

 そうやって遊んで本を読み終え私が眠くなると、父はもう寝ようかと言ったあとに

「だからね、だから大丈夫」

 とまた言いました。

 うん分かったと私も頷いて、そして直ぐに眠ってしまいました。


 人は誰でも心の旅をするのかもしれません。

 波を打つように時々怖くなる夜は私にもやってきて、そしてそんなことを何度か聞いたのだと思います。

 私はあの時の父の大丈夫という言葉にずっと救われてきたのですが、そういう父は大丈夫だったのかしらと、なんだか今頃になって急に心配になったりします。

 父はずっとどんなことを考えていたのか、母はなにかそういうこと、知ってるのかしら。


「いいかい。」

 父は口癖に近い感じでよくこの言葉を話の最初にもってきました。おそらくこの日もそうです。

「いいかい、もしお父さんとお母さんがもっと早く子どもを持ったとしたら、その子どもってあなたじゃないのよ。言ってる意味分かる?」

 なにそれ今でも分かりづらい。

「えー、分かんない」

「うん、じゃ教えてあげる、いいかい?」

 私うんと頷く。

「うん。いいかい、子どもっていうのはね、卵とそれを目指してやってくるちっさいオタマジャクシみたいなのがくっついて出来るわけ。これ、花だったら花粉だわな。おしべとめしべって聞いたことない?」

「よく分かんない」

「あ、そう。ならいいや。とにかくふたつがくっつかないと出来ないの。まずこれいいかい?」

 確認しながらしゃべる父。

「そうすると、卵っていうのはお母さんなわけ。で、ちっさいやつがお父さん。お母さんは卵を持っててお父さんはちっさいやつを持ってるわけ」

「どこに?」「お腹の下くらいかな」

「うん。それがね、その卵とちっさいやつがいっしょになって初めて子どもが生まれるんだけどさ、お父さんが持ってるちっさいやつがね、たくさんいるわけ、何億個もいるわけよ」

「えー」っと私、驚いた。

「そうなのよ、すごいのよ。それがさぁ、卵に会うのには一回のチャンスしかなくて、その一回の競争の時に相手が何億匹もいるわけさ。でなおかつ毎回卵と出会えるのは一匹いるかいないかなの。どうよ、これ」

「すごいね」

「そうなのよ。すごいのよ。まあだから競争みたいなもんだわな。そういう競争に勝ったのが子どもになるわけよ。どういう意味だか分かる?」

「分かんない」

「あなた、すごい競争に勝ったから生まれてこれたのよ。分かる?あなた走るのも勉強もいつも頑張ってるけどなかなかみんなにかなわないけどさあ、もう生まれた時に何億人、いや人じゃないね、だけどまぁいいや、何億人に勝ってるわけよ。勝ったから生まれたわけ。すごいことなわけ。偶然て分かる?うん、だからね、生まれるってすごいことなの。ここまでいい?」

「うん、なんとなく」

 私の分かったような分かんないような返事。父は時々私に熱弁をふるうんですけど、いつも半分くらいしか分かんなかった。

「でね、あなたはお父さんが四十三歳の時の競争に勝って生まれたわけ。だからもしお父さんがもっと若い二十何歳とか三十何歳とかの時の競争に勝った人っていうかオタマジャクシっていうかそういうのがいたとしたら、それ、あなたじゃないの。それ分かる?」

 うーん、なかなか難しい。

「お父さんが四十三歳の時の競争に勝ったからあなたが生まれたの。ほかはないの。今度はこれは必然だ。難しいね」

「えー、どういうこと、分かんない」

「お父さんが四十三歳だったからあなた生まれたの。ほかはないの」

 宿命っていう言葉をなんとなくでも理解したのはいつだろう。

「だからね、たしかにお父さんももっとはやくあなたに会いたかったなっていう気はするんだけどね、でももっとはやくお父さんが子どもをもったら、それ、あなたじゃないの。うん。あなたとはさ、このタイミングでないと会えなかったわけ。うん」

 思い出したのは、ドキュメンタリー番組を見てすぐ泣くあまり好きでない父のことでした。

「だからね、その分長く頑張ればいいじゃんて思ったわけ。だってさ、若いお父さんだって早く死んじゃう人はいるかもしれないし、わかんないじゃん。それじゃおんなじでしょ。お父さん、こう見えて若く見られるしさあ、頑張れば結構いけると思おうわけよ」


 焦る父を、今の私には少し理解できる気がします。

 早く会いたかったのは父も同じで、我が子の人生を最期まで見届けられないというどうにもならない当たり前のことに苦しんでいたのは、むしろ父の方だったかもしれません。父の苦悩の甲斐もなく、私は誰でもがそうであるようにいろんなことに気づいてきましたが、父が心配したほど私は弱くはなかったし、わりと前向きに生きることが出来ています。だから、安心して大丈夫なのよと伝えることが出来ればこれほど楽なことはないのですが、切ないと言えば、それが叶わないことが少しだけ切ないです。そしてそれは自分が見ることがない未来を、私がどう生きるのかと想像した時の父の切なさに似ている気もします。


 アルバムとたくさんの荷物を広げた居間に陽が斜めに射してきました。いつの間にかの夕日です。オレンジ色の光が眩しくて、父の写真が少し見えにくくなりました。

 生まれてから何回目の夕日なのかなと思います。

 私がまだいなかった日も父がいない今日も、同じ太陽が沈んでいくのが不思議です。

 母はまだ炬燵で休んでいます。そろそろ起こなさいといけません。今は私が見守る役目になりました。


 私と生きた父と母の人生のほとんどの時間は、原子力発電所の事故から私を守るためだけのものでした。あの事故で我が子を最期まで見届けたいという思いは手の届かない遠くへとさらに追いやられて、しかしそれでもひたすら毎日途方に暮れる日常をこなしながら、いずれ一人になる私のためにひとつでも多くのものを残そうとしていたのだと思います。

 そんな父や母が、それをひとつひとつ丁寧に拾いながら生きていく私の姿を想像することはさして難しいことではなかった筈ですし、それが父の時間を取り戻すための方法でもあったのなら、私は今どれだけ安堵するかわかりません。


 原発の廃炉作業はまだ終わらなくて、以前避難指示が出ていた周辺に結局人は帰らず、死んでしまったような町が残っただけですが、それは今の私たちにはあえて触れることもないごく当たり前の風景です。白血病と甲状腺機能低下症は今や生活習慣病の代表であり、子どものガンは珍しくなく、医者が明るくその予防法を説いています。

 非常識が常識になるのは意外と簡単でその変化は分かりづらく、人の権利は危うくて思うほど自分たちは自由でないことを父や母から知った私の人生は、ほとんどそのまま父と母への応えになるのかもしれません。


 おかげさまで母の体調はとてもよく、父がいないのを寂しがってはいますが出発を楽しみにしています。母の負担を考えればもっと暖かくなってからの出発でも良かったのですが、私は3月11日に拘りたくて、母には無理を言ったのですが当然のように母は快諾してくれました。

 起きた母が、どうした大丈夫と聞いてくるので、大丈夫よ、荷物整理はもう少しで終わるからねと声をかけました。

 寒くない?お腹はどう?今日の夜はなにを食べようかと、もう少ししたら母に聞いてみようと思います。昔母が私にしてくれたようにです。


 部屋の奥から私を呼ぶ声がします。さて誰だと思いますか?

 それはいつかの私かもしれない誰かへの宿題にしておきますね。



(終わり)



kaigo_taxi at 16:44コメント(0)

2019年02月14日

 私たち家族が東京からそれまで縁もゆかりもなかった岡山に来て間もなく五年が過ぎようとしています。今私は学校の臨時職員、妻は介護福祉士として仕事をし、娘は今春で小学四年生です。

 四十歳を過ぎてからの子どもということもあるのでしょうか、娘の身の周りのことに関して私は自分でも過保護かなと思うくらいに世話をやいてしまい、また私の両親にしても念願の孫ということもあるせいかまるで人が変わったように可愛がっています。しかしそれは遅ればせながらの親孝行でもあり、拍子抜けしながらも内心私は安堵したりもしています。

 東京にいた頃は、神奈川の実家には二か月に一回かそれ以上の頻度で帰っておりました。半ば諦めていた孫ですので、両親には出来るだけたくさん会わせてやりたいという思いが強く、またそれが自分にできる数少ない、そしてやっと出来るようになった親孝行の一つだと考えて、休日時間が出来ればいそいそと私たち家族は実家へ帰っておりました。

 そんな暮らしを一変させたのが、娘が生まれて約一年後に発生した東日本大震災、そしてあの時に起きた東電原発事故でした。食材への不安、水への不安、土への不安、空気への不安、生活への不安、将来への不安、そういったたくさんの不安があの事故をきっかけに一気に膨れ上がり、東京といえども、このままここに住み続けていては娘の健康や将来を守りきることが出来ないかもしれないという思いが日を追うごとに大きくなっていきました。

 しかし一方では今まで通り娘を両親に会わせてやりたいという思いは変わることがなく、孫を親に会わせるということと、どんなことがあっても娘は守りきるというふたつの約束の狭間で、しばらくの間私は悩み続けることになりました。

 私の母はなかなか私たちを理解してくれませんでした。そして終始私たちの岡山行きに反対し続けました。分かってもらいたいと必死でしたが、それは難しいことでした。

 母との気持ちの溝が埋まることがないまま、私たち家族は岡山行きを決断しました。間もなく娘が四歳になろうとする頃です。私はこれが苦渋の決断であること、仕事と住まいと託児には目途が立っていること、岡山は思うほど遠くはないということ、すぐ来られるしすぐ行けるということ、他に心配することは何もないことを両親に丁寧に話をしました。

 原発事故は、たとえ親子でも物事に対しての感受性の違いはどうにもならないということを教えてくれました。理解し合えないまま私たちは岡山に来ることを決断しましたが、事故に対する受け取り方に違いがあることが仮に仕方がないにせよ、私たち親子の心の分断までもそのまま放っておくことは到底できないことでもありました。私は岡山に行ったあとは今までのようにはいかないけれど、少なくとも半年に一回は両親に娘を会わせようということを何よりも先に決めました。簡単でないことはよく分かっていましたが、なんとしても約束は守りたいという、それはもはや意地のようなものでもありました。

 しかしそう決めても目途など全くありませんでした。それを救ってくれたのは私の弟です。私たちが岡山に来た直後に、まるで後を追いかけるようにして弟が両親を岡山に連れてきてくれました。五月の大型連休の時でした。

 老体に鞭を打ち、六百キロ余りの道のりを孫に会いに来る両親に、私は暫く甘えることにしました。これも仕方のないことなんだと、どうか分かって欲しいと心の中でそっと詫びていました。

 それ以降、両親と弟は約三年の間に年二回のペースで七回岡山に来てくれました。しかし“また来ればいいよ”と気安く言い続けることが私の中で徐々に難しくなっていきました。娘のリスクを避けるために岡山に来たのに、なぜわざわざこちらから関東に帰るのかという私たちからすれば至極まっとうな理由は、年老いた両親にいつまでも“また来なよ”とは言えないという気遣いと頻繁にぶつかりあい、その度に同じ疲労感を味わいます。パートをやめた母は足を痛め少し弱ってきており、孫に会いに来る姿は痛々しくさえありました。いつからか、母は“来るのはこれが最後だよ”と言うようになり、その言葉に私は“今度はこっちから行くから”という言葉を返すようになっていきました。いずれはこちらから行くようにするしかないのかもしれないと、私はそれが覚悟なのか当たり前の親孝行なのか分からないままそう考えるようになっていきました。

 二千十七年の猛暑と言われたあの夏、片足を痛そうにして歩く母の姿がいまだに私の目には焼きついています。

  一緒に岡山に来た父と弟が先に帰り、残った母が我が家に来てから間もなく一週間ほど経とうとしていたある日、私と妻の仕事の都合でやむを得ず母と学童を休んでいる娘に留守番を頼むことになりました。朝出かける前に娘を呼び、ご飯がジャーにあること、海苔が食器棚の一番下の引き出しに入っていることを伝えて、いいかい、お昼はツギちゃんに海苔巻きをつくってもらいなよ、ちゃんと教えてツギちゃんにやってもらいなね。ツギちゃんはおばあちゃんなんだから、頼むねと言いました。娘はなんとなく分かったように返事をしたのですが、結局娘が自分で海苔巻きをつくったようで、夜勤に出かける妻が写真をつけてラインでそのことを教えてくれました。

 一番の心配は娘の習い事で、母が娘と一緒に歩いて十五分の教室まで行くくらいはおそらく大丈夫だろうということで母に娘の送りを頼んでいました。母には何かあったら電話をするように言っておいたのですが、いざ出かけの予定の時間を過ぎても到着するはずの時間を過ぎても電話が静かなまなので少し心配になったのですが、暑い中なんとか二人で行けたのだろうと安心しかけたとたんに電話がかかってきました。私は“家に戻って来たよ、なんとか送ってきたよ”という母の声を想像しながらスマホを耳につけました。

「暑くてさあ、疲れちゃってさあ、塾で待ってるから。」
なんだ、まだいるのかよ。
「なんだ、教室に居ていいって先生言ってくれたの?」
「いやいや下だよ。下で待ってるから。」
「下って、外かい?」
「そうそう、だから待ってるから。」
気温三十七度。
なにしてんだよ。
気付けば母は、それこそ縁もゆかりもない場所で炎天下、私を待っていました。
なんでお袋は岡山のこんな場所で一人ポツンと暑いなかいるのだろうと無責任にも不思議な気分になってしまいました。
自分はなにをさせているんだろうと、私は自分のしていることにたちまち自信がなくなっていきました。
「もう終わるから。行くから。」
「ゆっくりでいいよ。」
すぐ行くよ、なに言ってんだ。
母は塾の建物をL字で囲む低い煉瓦の塀にちょこんと座っていました。一応ちゃんと帽子、被ってる。
車のクラクションをギリギリ小さく鳴らしたら、すぐに立ち上りこちらに歩いてきます。
なんだよ、その無表情。
やれやれ。
よく冷えた車の中で私は娘を待ち、お袋は今度は孫を待ちます。
テレビの音。
今日は暑かったよ、今日は特別暑かったよと、私は今日は誰でも暑かったことを強調しました。

 静かに確実に時間が流れていきます。そして私は果たして自分は酷いことをしているんだろうかと自分が疑わしくなりました。

 絶対だと思っていた確信が、なぜか揺らぐ一瞬があります。そして我々親子は今どこにいるんだろうかと、どこに立たされているんだろうかと途方にさえ暮れてしまいそうになります。なるべくなら、できるだけ早くそれを知りたい気がしています。

 この夏を最後に、両親は岡山には来ていません。岡山に来る度に言っていた“これが最後”というのが現実になっています。それ以降は都合三回、私たちが両親に会いに行っており、年に二回両親と娘を会わせるという“約束”を私は必死に守っています。それはなにより私たちの約束だからです。しかしそれでも心のどこかにある隙間を埋めきることは出来ません。それはもはや私たちだけでは解決できないことなのかもしれません。

 もしあの時の判断が法律や常識により正当に社会が認めるのでれば、ここまで私たち家族が苦悩することはなかったのではないかなと思わないではありません。自業自得と言いかねない残酷さをはらんだ社会においての“約束”とはなんなのか、私はあえて問うてみたい気がしています。

 もしかすると今度はまた父と母は岡山にやってくるかもしれません。私たち家族が引越しをして、その新しい家を見に来るという大義名分が出来たからです。

 夏が楽しみです。そして今年の五月の大型連休がいつもとは違い長いことも、一応弟には伝えてはあります。

(終わり)




kaigo_taxi at 11:48コメント(0)

2019年02月10日

 失礼します。
 本日はこのような機会をつくっていただきましてありがとうございました。私は二千十六年の四月からの三年間この中学校でお世話になりました。その間、先生方には大変お世話になりました。また多くのご指導も頂きました。先生方本当にありがとうございました。用務員として十分手の行き届かなかったこと、またご迷惑をおかけしたことは多々あったと思います。今日この場をお借りしてあらためてお詫びをさせていただければなと思っております。
 この学校で私は三年間お世話になりました。そして岡山で暮らすようになってからはこの春で丸五年になります。それまで私はずっと東京と神奈川におりまして、岡山にはそれまでご縁もゆかりもありませんで、父親は栃木、母親は鹿児島ではあるのですが、私は東京で生まれて神奈川で育ちまして、仕事もずっと東京ばかりでしたので、ですのでまさか自分が岡山に住むことになるとは実はまったく夢にも思ってもいませんでした。そして岡山の学校の先生と一緒にお仕事をするなどということも、まったく想像もしていなかったことでして、つくづく、縁とは面白いものだなと改めて今感慨深く思うところでもございます。
 用務員というお仕事も岡山に来るまではまったく考えたことがありませんで、岡山に来る直前までは私は自営で介護タクシーというのをやっておりました。そしてその前は、約二十年ずっとテレビにおりました。テレビと言ってもいろいろな仕事がございます。私は裏方の力仕事専門で、主にセットを飾ったりロケに行ったりする美術の仕事が専門でした。その時の“とりあえずあるものでなんとかする”という癖が、実は今用務員の仕事にかなり役に立っております。本当に、いつ何が役に立つかわからなと痛感したりもしております。
 であの、私がなぜ縁もゆかりもない岡山に来たかという話をほんの少しだけお話させていただけばなとちょっと思っております。そのきっかけは八年前の東日本大震災でした。もう少し分かりやすく言いますと、あの時私は東京にいたのですが、それでもあの時起きた原発事故がとっても怖くなりまして、当時一歳と一週間ほどの娘を抱えて東京にいたのですがそれが非常に不安になりました。でそれ以降、岡山に来るまでの三年間は、娘のためにできることは何でもやろうということで食事や外出も含め、その他色々な情報を入れ様々ことに気を付けて過ごしておりました。一時的な保養が大事ということで何度か妻と娘を九州に行かせたりなどもしました。母の実家の鹿児島にも行かせたりしました。でそうこうするうちに、東京で岡山の移住相談会があるということを知りまして、それまで岡山は全く頭にはなかったのですが、移住支援が充実しており、移住者も多いということでそれではと相談会に参加しまして、それが岡山との最初のご縁になりました。そのあとの二度目の相談会、そして初めての来岡、そして移住支援住宅の入居募集への応募、そしてその応募に運よく当たったりしまして、そしてそのようなご縁が重なりまして岡山に来ることを決めました。それがちょうど五年前の三月ということになります。先に妻と娘が岡山に参りました。そして一か月遅れて四月に当初来るつもりのなかった私が合流し、その後岡山市内で二度引っ越しをして、そして今に至っております。
 あの、経緯は様々なんですが、実は私のような家族、特に震災以降多くのお母さんたちが主に母子家庭として岡山にやってきています。お母さん同士での結びつきは強くて、同じ危機感を持ち、互いに情報共有をして子どもを守りたいという思い一心で今も繋がりながら岡山で暮らしているお母さんたいがたくさんおります。そしてそういういわゆる「原発移住」、といいますか「原発避難」と呼ばれる人の数が、実は西日本では岡山が突出して多くおります。その七割は福島や東北ではなく関東圏からだったりしています。震災から八年が経ちましたので、当時小さかった子の中には中学校に進学する子もいますし既に進学した子もおります。岡山に震災を機に移住した人が多いという状況については、岡山のメディアでも“岡山現象”という形で紹介もされたりもしているのですが、こういう状況があるということを先生方にはぜひ知っていただければなと思いまして、今日も本来なら送別の大事なご挨拶をせねばいけないところではあったのですが、失礼なことと思いつつお話しさせていただいてしまいました。
 用務の仕事はそれはもちろんなのですが、こういうお話をさせていただいて少しでも多くの方にこの状況を知っていただくのが私の岡山での一番の仕事ではないかなと勝手に思っておりまして、そして岡山で暮らす意味の多くは、そこにあるのかもしれないとも思っていて、大変失礼かなとは思ったのですが、このようなご挨拶をさせていただいてしまいました。あの、本当に申し訳ありません。
 原発の事故というのは風化したなどとも時折言わたりするのですが、私たちのようなものにとっては風化どころか生活そのものになっています。そして場合によっては、これはきわめて個人的な出来事のようにされがちなのですが、決してそうではなく広く一般的な話なんだということを、少しでもお伝えできればなというふうにも思っています。岡山でも気を付けないといけないことはあると思っています。そういう生活を、特に娘のためにはしているつもりです。生意気言うようで申し訳ないのですが、これも私の務めかなというふうに感じて、お話しさせて頂いてしまいました。
 用務のお仕事を通して岡山の皆さんにご恩返しできるということをほんとにありがたく思っております。○○でどれだけできたかわかりませんが、転任校でも少しでも微力を岡山の皆さんのために使わせて頂ければなと思っております。
 最後にはなりますが先生方のご活躍を陰ながらお祈りさせて頂きます。今日は失礼承知でこの場に立たせていただきました。お世話になりました。本当にありがとうございました。

(終わり)



kaigo_taxi at 07:05コメント(0)

2019年01月21日

 会社の社長が東京へ出張に行くという。二泊三日でアフターファイブをどう過ごそうかと食堂で皆にいろいろ聞いている。

  岡山に来てから気になっていることのひとつに、日常会話として東京に行く話がよく出てくるということがあって、話す人は決して珍しくない事のように話をし、聞く人もいつものことのように聞き慣れた話題として聞くのだけど、どこかに隠れている特別感のようなものを完璧に閉じ込めることに大概は失敗していて、結局周囲にそれをなんとなくではあるけれど漂わせてしまっている。

  誰にとっても東京が以前と変わらないままの特別な場所でよいのなら、安直な僕の自尊心も傷付かずに済んで少しは楽だったのかもしれないけれど、東京にはもう住めないと思って岡山に来た僕にはそんな価値はもう東京にはないので、本当は同じ特別感のままで話をして欲しくはないのだけど、そんな僕の都合が通用する様子はほとんどなさそうで、結局どっちにしても疎外感は形を変えながらずっとなくならないでどうもいるらしい。

  東京へ行くという日常会話に僕が混ぜてもらえないのは、東京から来た僕の事情を気遣ってもらっているからか、それともその理由がなんだか胡散臭いからか、あるいは東京の話など、わざわざ東京の人間に聞くまでもないということなのか、なんでなのかさっぱりわからないんだけど、でももし僕がその話に完全に入ってしまったら、今岡山にいる理由がなくなりかねないし、今の暮らしと、岡山に来るまでの、吸う空気も蛇口から出てくる水もスーパーに並ぶ食べ物も何から何まで不安で毎日毎日一分一秒必死に闘っていた東京の生活のことと、全部捨て、何もかも決まらないまま逃げるように岡山にやって来たそういう苦悩や覚悟や葛藤を消してしまいそうだし、それどころか、その意味さえ否定してしまって、知って欲しいことも知ってもらえないまま終わってしまいそうなので、そっとしておいてくれた方が助かると言えば助かるのだけど、しかしそうかといって日常を無視するわけにもいかないから、それはそれで悩ましかったりする。

  なんとなく窓外を眺めると、葉がすっかり落ちた桜の木が窓のわりと近かくに立っていて、その伸びた枝が景色の大半を塞いでしまってはいるけれど、隣のブライダルホールの突き出た屋根にざっくり刻まれた空はちゃんと真っ青に晴れていて、それが頼みの綱になって懐かしくて遠いけれどしかし全然危うくない、確実な場所にかろうじて僕の記憶は繋がってゆこうとする。

  あまりよくないなとは思いながら、僕は居心地の悪さを試しに311より前から感じる閉所恐怖症のせいにしてみた。それを僕の居る方とは全然違う方向に向かってひたすら遠くへ響いていく社長の声が少し後押しをする。

  僕は食堂ではいつもだいたい黙っていて、それはこの職場に移動して一年半経ってもいまだにそういう風に、この職場の人達との距離の保ち方がよく分からないからで、どう相槌を打って良いかとか、どう口を挟んで良いかというように、会話のテンポがいまだに掴めずに、自分の居心地のいい場所をずっと見つけることができないでいるからで、なので黙っているというよりは、打てる相槌はあるはずなのにそのタイミングをいつも逸していると言うのが正しいかもしれない。

  ただそういう、職場でのコミュニケーションが思うように取れないといった、本当だったら仕事の悩みと人から言われそうなことが、原発事故を理由に岡山に来た僕にはほとんど大した問題ににはならなくなっていて、僕のわりとウケる会話を披露する機会がほとんどないのは少し残念なのだけど、といってそれをなんとかしようという焦りもなく、会社の人たちとの関係はさしずめ電車にたまたま乗り合わせた客同士くらいがちょうど良いという気さえしている。

  陽当たりは決してよくないのに南向きの窓が全面ガラスのせいかこの食堂は比較的明るくて、あまり関心のないこの部屋の温度もわずかに上がっているような気がしなくもない。コの字に並べられたテーブルで僕を入れて八人が同じお盆にのった違うメニューの昼ご飯を食べていて、その角で食べ終えた食器が乗ったままのお盆を持ちながら二王立ちする社長は、低くて通る声で意見を求めるでもなく、かといって無視するのもお互い困るくらいの、上でもなく横でもない微妙な角度で東京の話を続ける。


  昼間は良いんですよ、問題は夜なんです。


  社長の低く通る声が、僕には岡山を代表しているようにいつも聞こえて仕方ない。東京では聞いたことがないようなひたすら広がり決して急がない声。あの事故がなければ絶対いる筈がなかった食堂で、聞くこともなかった筈のその声を、僕はいつも昼飯を食べながら身構えるでもなくといって聞き流すわけでもない程度に、耳に入ってくるのをただ淡々と許しているだけなのだけど、ただ今日は、社長が僕にとっては懐かしい場所をあちこちと口にするので、その声が食堂の眩しいガラス窓に当たったあとに僕の方に跳ね返ってきて、僕の耳に遠慮なく入り込んで来ようとする。

  あの事故のおかげで大事にしまっておく価値もなくなって、また思い出せば無頓着と自分で自分を責めてしまう東京の風景が、今日はなんだか数少ない味方のように愛おしく、きのうなら跳ね返したかもしれなかったその声を、たぶん今日は自分から拾いにいこうとしている。


  最後は東大の大学院まで行った後輩がおるけど、何十年も会っとらんし。

  会場は何処なん、と古株の妹尾さんが社長に聞いた。

  東京国際フォーラム。そそ、有楽町の。


  僕は四年前の国際フォーラムの風景を思い出す。交通会館であった岡山の移住相談会に行った時、外をうろつくのが怖かったから妻と娘を連れていった。全面ガラスだらけの、明るくて眩しい広々とした国際フォーラムの空間は、被曝を恐れる僕と妻には都合が良かった。


  あの辺りで食事するとことか、どこかいい所知らんの。


  社長は構わず話を続ける。
  食堂に響く東京の地名に僕は、しなくてもいい動揺をして、したくもない葛藤をする。

  僕が昔東京のテレビ局で裏方の仕事をしていた時に、連ドラのロケで国際フォーラムはよく行っていたなんて絶体社長は思いつきもしないと思うけど、それと同じくらい、福島原発の事故のせいで東京にいた僕が東京で被曝を怖がって、その国際フォーラムに逃げたことがあるなんて全く想像できないんだろうなと、この食堂に漂う空気をまた僕は身体中で観察してみるんだけど、いつもはコソコソ社長の愚痴をこぼしている人たちもさすがにそこは同調しそうだったりするので僕の孤独に拍車はかかるけど、僕も僕で、そうやって観察することが黙っているのに都合が良かったり、観察の結果やっぱりいつものように黙っていた方がよさそうだっていう風になるので、それにかこつけて僕はまた今日もどんな人なんだろうと不思議がられているのを実は面白がっていたりしている。

  食堂の南側全面の窓ガラスに描かれた岡山の風景は平穏で、空は動かしがたいほどに青く途方に暮れるほどに澄んでいる。
  あまりの透明感とあまりの純度に僕は無力で語る気にもならなくなりそうだけれど、沈黙を続ければ、それはあの原発事故の当事者である筈の僕らがどこにも存在しなくなってしまうということなので、そんなことは我慢できないので、なので僕は、合理的な透明感に感謝し理解しようと努めながらも、山ほどある言いたいことや言わなきゃいけないことを言うチャンスを、どんな時でもうかがわないわけにはいかないのだ。


  一年七ヶ月前の職場異動の面接の時、社長は僕が東京から来たことは既に知っていて、そしてその時震災がきっかけでと言ったのは僕ではなく社長の方だった。


  はい、事故とかもありましたので、

  と社長の言葉にそれをつけ足したのが僕の最初の言葉だった。僕は社長の返事を待たずそのまま続けるように

 まだあの、子どもが小さいというのものありましたので、

  と様子を見るようにつけ加えた。

  社長は頷いたのか頷かなかったのか分からなかったのだけど僕の答えに被せる感じで

 どうですか岡山は。岡山に来てどれくらい?

  と聞いてきた。

  そろそろ二年になります。前任が一年九ヶ月でしたので、その二ヶ月前に岡山に来てますので、二年を少し切るくらいです。

  ああそうか、そうだね。じゃあもうだいぶ慣れたでしょ。

  はい。そうですね、もう困るようなことはほとんどないような気がしますし、お店にしてもなんにしてもたくさんありますので、もうほとんど、はい、なんとか生活させてもらってます。ほんと、ありがたいです。

  と本当はちっとも慣れないことばかりなのに、岡山への感謝を素直に付け足してそう返事をした。


  原発事故をきっかけに関東から岡山に来た人はいっぱいいて、いろんな苦労を抱え暮らしているということをひとりでもたくさんの人に知ってほしいという目論見からすると、社長との最初の会話は完全に空振りだったと言われれば、まあそうかもしれない。

  でもまたそのうちチャンスはあると、僕は僕にたかをくくったふりをする。
  まあ言い訳すれば、恐ろしくなるくらいに変わらなかった日常との折り合いをそうやってつけているということだと思うけど、それはそれで日常とはそんなものかと自分の日常との不釣り合いに戸惑ったりしているからそこは勘弁して欲しい。

  僕には東京は腐ったようになってしまって、空気は黄ばみ青空は嘘っぽく見えて、風は嫌味なくらいに陰湿に弱みにつけ込んでくるようになった。
  肩にのし掛かる表向きの日常が重く心臓にまで圧迫感を与えて苦しかった。
  その中で生きた間の絶望感くらいは伝えないといけないし、すぐ伝わるものだと思っていたし、岡山に来てからも苦しむお母さんたちがたくさんいるから、それはなんとかたくさんいろんな人に僕の話を聞いてもらう必要があると思うのだけど、なぜだかどこかにいつも壁がある。
  注いだ熱いコーヒーをなんとか早く飲んでほしいのになかなか飲んでもらえないみたいに、だから僕はずっとイライラしている。冷めやしないかと。

  岡山の社長の団体さんが行って暇を持て余さないようなところを、あちこち懐かしむ感じで考えてみたけれど、違和感ない場所が結局見つからなかったので、結局僕はなにも言わないでおいた。それに、ここがいいあそこがいいとあれやこれや東京のあちこちを言うのもどうかなと、僕の日常もまだ相変わらずだったりする。

  社長はあきらめたように、なんとなく悩んだ感じで食器の返却カウンターに向って振り返り、食器とお盆をゆっくり片付け食堂を出て行った。

  東京いうてもなあと、社長が食堂からいなくなると必ず最初に何か呟く妹尾さんが誰に言うでもなく、しかしまわりにはちゃんと聞こえる声で少しだけ天井の方を見上げながら呟いた。


  知らんもんなあ。

  自分で探せて。

  チェッ。


  僕が東京から来たということを知っている若い大森さんが舌打ちする。この前東京ドームに行ってきたばかりの大森さんの東京に対する特別感は今も変わっていないとしか思えないし、僕と同じ疎外感を持っている筈はないんだけど、僕は大森さんの舌打ちに便乗して少しホッとした気分を味わうことにしてみた。


  隣で食べている中嶋さんは、僕が岡山に来た経緯についてほとんど包み隠さず話をしたことのある、仕事の同僚では数少ないうちの一人で、他の人と同じようにやはり立ち話がきっかけだった。

 「なかじまさん」と濁らず、イントネーションもちゃんと「か」に力をこめて、
 「なかしまさん」と読む。


  原発の事故が怖くて逃げてきました。


  僕らのことを理解してくれる人が増えるかどうかは、この一言が言えるかどうかにかかっていて、僕は誰かと話をするチャンスがあるといつでもすぐこの言葉が出せるように準備をするのだけど、いつもそれを言えるかというと、やはりそうはなかなかいかない。

  中嶋さんとはあまり話をしたことがないうちに直ぐそういう話が出来た。

  中嶋さんは、僕の言うことひとつひとつに合点が行くように頷き、質問し、一緒に考えてくれた。なぜ岡山に来たのか、なぜ岡山なのか、311のあと僕ら家族がどんな生活をしてきたか、今どんな生活をしているか、今どんな気持ちでいるかを包み隠さず言い忘れがないか確かめるように僕は話をした。

  社長が食堂を出ていって、妹尾さんが食堂をいつもの空気に戻したあと、その中嶋さんが少し間をおいていかにも中嶋さんらしくいつもの調子で唐突に、


  山田さん、山田さんはもう東京には帰らんの?


  と、僕に訊ねてくる。

  思いのままを話せば相手は全てを理解してくれるというのは誰でもいつでもしかねない錯覚だということに震災のあと僕は気付いたんだけど、僕は中嶋さんに向かって


 え、そんな簡単に帰れるなら来てませんよ岡山に。


  と目で嘆いてみながら、中嶋さんは社長の話につられて僕が東京に帰るのかどうか気になったのか、それとも逆に東京に帰らない覚悟がどのくらいなのかを知りたくなったのか、どっちなんだろうと一瞬悩んだあとに、


  いやあ、予定はないですねぇ。今のところ。


  と被曝が怖いから帰れないという意味と、あくまで常識的に手間のかかることだから、というふたつのニュアンスを混ぜこぜにして、中嶋さんだけに聞こえるように答えた。

  東京から230キロの所で起きたレベル7の事故は僕には確実に何かの終わりだったので、そういう状況で自分のまだ小さな子どもを守ることなんて当たり前で、当然僕の行動の全ては誰にでもすぐ理解してもらえるとなんの疑いもなく思っていたのに、それがそうでもなさそうな現実をあの事故から六年以上ずっとこれでもかと見せつけられてきたから、あんなにいろいろ話をした中嶋さんが好奇心で今聞いているとしても僕はそれを理解するし、中嶋さんにも落胆しないし、まして避難者でもなく震災との物理的な距離もあったはずの中嶋さんが僕の話を聞きたいと思って聞いてくれたそのことに、相変わらず僕は感謝しないわけにはいかないのは全く変わりがない。
  そしてなにより、信じられない筈の常識に馴染もうとしていることに気づかせてもらったのは他でもない中嶋さんだ。

  ましてや中嶋さんが、例えば我が家が娘を連れて神奈川の実家に帰るとなると、まずマスクは必ず必要で、服はすぐ帰ったら洗うとか、実家の食事は食べないとか、一食はベクレルフリーのレストランにするとか、娘の朝のヨーグルトとルイボスティは持っていくとか、お米も五号くらいならビニル袋に入れていこうと考えたりだとか、そういうことをしてるなんてことが全然想像できないのは当たり前で、そんなこと許すに決まってるんだけど、そこまですることを仕方ないよねと許してくれるのかくれないのかがはっきりしないこの食堂の気配の方は、僕はどこからでも感じ取ることができてしまって、なのにそれを僕の方がむしろ気を使ってそうだよな、やりすぎじゃないかなと疑心暗鬼になったり、あるいは東京への荷支度にこれだけ神経を使う妻のことを頼りにしつつもちょっとやり過ぎじゃないかとその度に思ってみたり、そういう風に自分で自分を確かめるようなことを毎日毎時間のようにしてしまうんだけど、我が子を守るというのは至極まっとうで当たり前で、ただ悩ましいのは、そういう強めの僕の信念と全く価値がなくなってしまった常識との間の葛藤なのだけど、ところがそれを優柔不断だと誰かに責められたりしまいかと今度はそっちが気になったりする。

  もうこうなると僕の手には負えない。

  津山生まれの中嶋さんにはコンビニの袋のことはビニル袋って言うよりナイロン袋って言った方がピンと来るんだったと思い出した。
  岡山に来て初めてナイロン袋っていう言い方を聞いた。ナイロン袋って言われて何だろうとはじめのうち結構考えた。
  カッターシャツもえらく悩んだ。ママカリなんていまだにどうも自信ない。


  え、じゃあずっと岡山におるん?

  まあ子どもがね、学校行ってる間はね、いた方がいいかなっていう。

  そう言った後に僕は口には出さず頭の中で

 中嶋さん、そんなに簡単じゃないですよ、

  と今度はそう付け加えた。


  放射能汚染は時間が経てば解決するというものじゃないというのは僕の見立てでしかないのか、あるいは本当にそういうもんなのかがもう分からなくなちゃってるんだけど、ただあの事故から僕には東京の空がずっと黄ばんで見えていて、それはなかなかなくならず、東京に帰らないのかという質問は言ってみれば、ウンコをよそったお椀だけど一生懸命洗剤を使って洗ったし、消毒までしたんだし、なにしろもうずいぶん経ってるし、どうなのよ、帰ろうと思えば帰れるんじゃないのと聞かれているようなもので、そうすると、なんだそんなことかと僕を神経質な人間と決めつけちゃう人は笑い、一方で“僕と同じ側のはずの人”にはそんな情緒的な事じゃないでしょ、事実汚染されてるでしょうと言われそうなのだけど、どっちにしてもあの原発事故をどうして僕は正々堂々と怖がることができないんだろうと、ただただひたすらその疑問に悩み苦しみ続けてる。

  そういうことも伝わらないのかなと思う。
  どれだけ話をしても絶対通じないことはやはりあるのかなと考える。
  中嶋さんにはそうは見えないのだろうか。
  中嶋さんがこの前東京の友達に会ってきたと言っていたのを思い出した。
  原発事故はやっぱり不思議で仕方ない。
  こうこうこういう理由で逃げてきたんですという僕の話を今日何度も何度も深くうなずいて聞いてくれた人が、翌日江戸前寿司を食いに行ったりする。

  なんだか全然分からない。

  中嶋さんに東京の汚染を説明するなら、半減期とか放射能は累積で考えないといけないとかちゃんと科学的にしたほうが良かったのかもしれないけれど、じゃあ科学的根拠に基づいた話を僕が一体どれだけ出来んのかっていう問題があるわけで、出来たにしたってそれは誰かの受け売りで、おまけにそもそも専門家のレベルで意見が割れているのだから、そこに説得力を持たせるなんてそりぁ難しいし、とにかく話をするのは僕なんだから。

  誰がどれだけ正確に東京の汚染を説明できるんだろうか。

  東京の汚染を国は調べないから市民レベルでやるんだけど、そうなるといろいろ考えがあって中には悲しいかな軋轢も出てくることもあり得るわけだ。悲しいかな。国がやればそもそも国のやることがどれだけ信用できるかっていう問題もあるし、仮にできたとして、また国頼みかと言う不平も出てきたりする。そしてまとまらないうちに結局民間はあてにならないという、権力や権威任せの発想がに風切って歩き出す。個人がそれぞれ言う事に対して謙虚でないというのが個人の権利に疎い事の何よりの証拠だとすればいろんなことに合点がいく。

  虚しい堂々巡りが六年半、僕の身近かのあちこちで起きている。


  そうかぁと、中嶋さんは僕が岡山に留まるつもりだという返事にどういう風にかは分からないが納得したようだった。

  中嶋さんのご実家は津山でしたね。

  僕はとりあえず中嶋さんに同調しておくことにする。

  そうそう津山。だけど誰も住んどらんの。山田さん、買って。

  買うって、今言ったじゃないですか、ギリギリで来たんだって、

  と言ったつもりで、うーんと唸ってみる。

  今、多いんですよね、住む人がいないって言って困ってる家。

  もう、大変よ田舎は。

  東京もです。じゃあ、管理とか、どうされてるんですか?

  だからこの前も行ったわよ。窓開けて、風通さないと痛んじゃうから。

  ですよね。大変だ。

  まあ、両親の世話はね、兄夫婦がしてるからまだいいんだけど。

  施設かなんか?

  そうそう。


  ブライダルホールの突き出た屋根がほんのちょっと傾いたかもしれない太陽を微妙に隠して、食堂を横切る影の形を少し変えたような気もする。

  僕はいつもと同じように二番目に食べ終えていて、早食いの僕がびっくりするほど食べるのが早いたぶん僕より年長の難波さんがやっぱり先に食べ終わっていて、妹尾さんと大森さんはなにやら話をしている。

  最初に食べ終わった難波さんが食堂を最初に出て行って、そして僕と中嶋さんの会話もちょっと切れたので、二番目に食べ終わった僕は二番目に食堂を出ることにした。
  会話の最中の中座の仕方は、僕はもうだいぶ習得したように思う。
  僕は特に中嶋さんに目くばせすることもなくゆっくり立ち上がり、いつものように横向きのお盆を縦にしてからそれを持ち上げ、コップを右手にとって返却カウンターに向かった。


  食器を片づけ廊下を右に出て、また曲がって昼の節電でうす暗くなった廊下の奥の方に歩いて行って、その一番奥にある自分の部屋に入ろうとすると、今通り過ぎた社長室に社長が入ろうとしていたので、僕は思わず少し慌てて声をかけた。


  社長さっきの話なんですけど。

  ウンと返事をして社長は興味ありの顔で僕の方を見ながら近寄ってきた。

  宿泊はどちらなんですか?

  銀座銀座。

  あ、銀座なんですね。

  そうそう。

  これ、天気次第だし、この時期ちょっと寒いかもしれないんですけど、屋形船なんてどうかなと。ちょっと思ったんですけど。

  屋形船はね、一度乗ったんですよ。
  ぐるっとね。ぐるっと一周したたことがあるんです。

  そうなんですね。

  そうなんです。あれ、フェリーが乗れますね、あれどこだっけ。

  竹芝からは乗れますね。

  そうそう、なんかね、回ったことがあるんです。

  そうなんですね。

  そうなんです。

  ちょっといろいろいいとこないかなって考えたんですけど。
  六本木の防衛省のとこだいぶ変わったんですけど、あんなとこ行っても仕様がないしなあ。

  と僕は考えている仕草を見せながら控えめに言ってみる。

  いいとこあったらまたいろいろ教えてください。

  間を置き社長が軽く頭を下げるので、僕もとんでもありませんと言って頭を下げた。


  逃げてきた筈の東京のあちこちを、汚染だらけの筈のあちこちを、僕はどこがお奨めかなといろいろ考えながら誠実に社長にお伝えした。

  社長は社長室に入っていき、僕も部屋に入った。

 (終わり)



kaigo_taxi at 16:55コメント(0)
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