2019年
2020年02月07日
2019年11月06日
2019年10月06日
これが僕のメンタル維持に必要なので迷惑承知で書きます。
今朝は、なんで自分はこんなに落ち込むことになったんだろうと、原因になりそうなことを思い出しながら考えました。ずっとまえから継続してることばかりなのになんでだろうというふうにです。
きのうは朝から機嫌がいいと思ったとたんに不愉快になり自転車もろくに漕げなくなったのですが、昨夜の妻と娘の肩もみがよかったのか、今朝は頭痛もなく気分も軽くなり、そして気分の落ち込みを察知して回避することを癖にしてもいいかもしれないと、その対処法について考えるほどです。
先週は娘のプールの付き添いを妻に任せ、今週も任そうと今朝まで思っていましたが、行ってみようと思い今日は来ています。
しかし出かけてみて、落ち込みの大きな原因がやはり、岡山の交通マナーにあるかもしれないことに気づきました。来るまでに何度も落ち込みそうな気配を感じたからです。察知してなんとか回避して来ました。
そもそも僕は田舎の横暴さが大嫌いなのですが、どこかに東京でのプロドライバーとしてのプライドじみたものがあって、それがそう感じる理由のひとつなのかもしれません。
潜在的なもの、311、逃げてきたこと、そんなものが混ざってわからなくなりそのまま落ち込みの原因になっているのかもしれませんが、今いる環境の中には原因というよりそれを暴発させる引き金が至るところに転がっていて、毎日その引き金を引き続けていたのかなと気付きました。
これはいま、次に受けるカウンセリングのために書いてる節もあります。
こんなもの読みたい人はいるはずありませんのでどんどん友達削除してください。
関心ない人は、どんどん僕を無視しています。
全く無反応な友達が、わんさかいます。
すべては僕の問題です。
すべてとは当然原発避難も含まれます。
そんなもんだと思えて今は達観しています。
算数の出来ない人間にも権利くらいあります。
知ってるふりだけの人ばかりなので、あえて書いておきます。
終わりです。
2019年09月30日
職場の人たちと打ち解けて居場所に馴染むことに徹しようとすると、そこから解放された時に急に虚しくなるので、これから夜のお疲れ様の宴のあとは気をつけないといけない。この週末は最悪だった。
今頃になって、当事者でいることは物凄くエネルギーのいることなんだと言うことに気づいたら、僕らの社会では「当事者」が存在することが極めて難しいという自分の言葉にあらためて合点がいったりしたのだけど、そこで僕はまたそうかと思わず膝を叩きそうになった。
つまり、当事者でなければ楽だから当事者をやめるのではなく、当事者であることが苦しいから当事者をやめるのだなと、そのことは僕には完全に当てはまるし、そしてこれまで当事者をやめていった人たちにもそれはきっと当てはまるのかもしれないと、極めて単純明解な答えに一気にたどり着いてしまったのだ。
さて僕は今当事者をやめているのだけど、果たしてこれでよいのか悪いのかさっぱり分からないし、分かろうとなんてちっとも思っていないけれど、今はっきり言えるのは、僕は僕の残り時間を一瞬に捉えたいと思っているということと、その一瞬は限りなく永遠に似ているのかもしれないと感じているということで、だから、当事者をやめようが戻ろうがそれは瞬く間の出来事であるし、その葛藤は永遠のものとしてただ残るだけなんだと、諦めでも達観でもなくひたすら永遠に溶けていたいという思いで、ただ身をそれに任せるだけに過ぎないのです。
2019年08月06日
2019年07月31日
7月31日
今日で用務員丸五年を終えました。一日空けてあさってから六年目に入ります。岡山に逃げて五年三か月。岡山での五年はわずか五時間程度の時間にしか感じられず、原発事故から岡山に来るまでの間はほとんど時間は止まっておりましたが、その半日にも満たない間に娘は成長し、僕と妻の元から巣立つ日を今か今かと待ちわびているようにも見えています。確実な時を娘は僕らに与えてくれておりました。
時間の流れに戸惑わないことに決めた僕の一瞬は永遠になりました。娘との時間がいとおしいです。僕らの生活は闘いそのものになりました。原発事故が風化した時は僕らが死ぬ時です。このままで済ますつもりはありません。娘にはあらゆる生き延びる知恵とあらゆる逃げ道を残してやるつもりです。今は少し、親は必ず子を残して死ななければならないことを勝手に
決めた神様を恨んでいます。
原発反対。
2019年07月21日
7月21日
僕は東京からの「避難者」で、それもホットスポットからの避難でも、チェルノブイリ法に照らした時の「避難の権利」を持ちうる地域からの避難でもありません。
それが理由にという訳でもありませんが僕はたまに自分はどんな立場なのかを整理したくなります。
つまり、
比較対象になるチェルノブイリ法であっても被害の救済について決して万全ではない、
東電原発事故で何が起きたのかが結局よく分からない、
事故により承る肉内的精神的苦痛と権利の救済せよ、
311以前の状態に戻せ、
子どもの権利を補償せよ、
人生をかけた脱原発論者である。
ということかなと思うわけです。
怖い、気持ち悪い、子ども守りたい、だから逃げた。
その思いを社会に受け入れてほしいと思うのは贅沢な話なんだろうかと思うわけです。僕個人は物資資金の補償には鈍感だけど、そういう思いの容認が欲しい。あなたは逃げて当然だった。国にそう言って欲しい。
分かりますか?
僕は分かりません。
#原発流民
#岡山
2019年07月19日
2019年07月06日
7月6日
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もう三年前になりますが、ある活動で一切の交流を絶ちたくなるほどの気持ちの落ち込みを経験しました。それ以来、それまで娘を連れ行ける交流会、出来る活動、毎週末予定が切れることなく続けていたものをどれもこれもやめ、外に向かわなければいけないという今は錯覚に感じるその僕の善意と数年闘っておりました。今はその時に戻るつもりは失せて、沈んで戻らないまま、波風感じる必要のない海底を盲目的にひたすら平らな砂地をなぞっていればいいという風な、諦めなのか薬が効いているのか判別不能ではあるけれど、居心地は周りのことを考えなければ決して悪くはないといった状態です。しかし多少息苦しいのは事実です。
娘は大分泣きましたが十時くらいには寝ました。震災から今までの話を初めてして、お母さんもお父さんも苦しんでいるが頑張ってると話をしました。そしてあなたもねと。
選挙のことなどもうしないだろうと思っていました。けれど体が勝手に動いた。おとといまで動く気にもならなかったのがきのういきなり動きました。それはこの八年半の間、生きることがそのまま闘うことになった日常の中にいつも必ずどこかに山本太郎の姿があったからだと思います。これは祭りではない、これは日常なんだと、思い出しました。
原発四基吹っ飛ばした国の大人たちに、それ以上の恥などありません。僕は僕が当事者であることを伝えるのみです。
店の名前を告げたラインが妻から来ました。
そろそろ帰って来ると思います。
原発反対は選挙の争点ではなく人生の争点。
聞くだけ野暮。
#原発流民
2019年06月22日
06月22日 8:32
朝一緒に学校行く機会なんてそんなにないんだから、こういう時くらい一緒に行けばいいじゃないかと思うんだけど、一緒に登校する親はほとんどいない。途中見覚えのあるおばあちゃんが乳母車を押して横断歩道を渡るのが見えたら案の定娘もすぐに気がついて、いつもより少し軽めのランドセルを背中で振って走り寄っていく。おはようございまーすと今日も照れない娘に感心する。乳母車には思った通りよたよた歩くあのじいさん犬がいて、眠いのか老いたが故でなのか目を半開きに閉じていた。おはようございます、今日は学校?と声をかけてくださったご婦人が、僕と娘を半分ずつ見ながらお父さん?とこの前と同じことをまた聞いてきた。さては、やんわりとお父さんかおじいさんか確認してるなとまた僕は勘繰って、すかさずそうですと照れておいた。学校に着くと子どもばっかりで入口もまだ開いてない。僕は娘と別れわざわざ学校の外をまわって反対の門からゆっくり入ってはみたけれど、それでも僕はほぼ保護者一番乗りになってしまった。