2017年

2017年08月25日

2017年8月25日


女子生徒三人は夕方まで草刈りを頑張ってました。僕がポケットに手を入れ、これでさあ、アイスでも買っておいでよって言うのはダメなのかなあと試しに言ってみたらひとりの子が、だいじょーぶだとおもいますよーっと言って、もうひとりの子がクスクス笑ってからアイス問答が始まった。

副校長先生はなんか言ってくれなかったの?

言ってくれませんでしたぁ、

 そうかあ、じゃあちょっときびしいなあ、

先生アイスお願いします、

最後はいつ食べた?

きのうです、

きのうか、きのうじゃなあ、きのうはねぇ、ちょっとダメなのよ、
 何年も食べてませんとか、そういうのならもう全然OKだったんだけど、きのうじゃなあ。

あ、食べたことないんですよ、

え、食べたことないの?じゃ食べなくてもいいんじゃない。いいよいいよ食べなくて。

どんな味か食べてみたいんでお願いしまーす。

美味しいってうわさ、聞いたんだ、どっかで(笑)、
だったらコンビニなんかじゃなくいいの食べたほうがいいよ。

先生に買って貰ったアイスがいいんです、

ああ、なるほどね。

あ、教頭先生。教頭先生に聞いてごらん。

中学校は先生も生徒も忙しくて、なかなか話をするタイミングさえないんだけど、今日はなんか嬉しかった。帰り際、その子にうちに帰ったら美味しいアイス食べなと言ったらニコッと笑い顔を返してくれた。

#8月に入ってからが早かったな夏休み



kaigo_taxi at 10:22コメント(0)

2017年08月15日

2017年8月15日

あ、そうか。じゃあなたは前向きになれるんですね。僕は原発事故の時これはえらいことだなと、まさか起こらないだろうなと思っていた事がほんとに起こっちゃって途方に暮れたというか、これからいったいどうなるんだろうと、まったくうちの娘はえらい時に生まれてきたなと、テレビでもくもく煙をあげている原発をみながら空想と現実の間を絶望的にいったり来たりしてたんです。だからってうわけじゃないんだけど、とてもじゃないがいまだに前向きにはね、なかなかなれないんです。いまだに途方に暮れてると言っても、それたぶんそんなに間違いじゃないです。まあ僕は弱いからそんなふうになっちゃうんだけど、でもですね、おんなじようにあの時感じた人でも前向きになれる人はいるわけです。ま、それはそうなんですけどね。それを強いと言ってしまってはほんとはいけなくて、それはね、絶望ばっかりしていたら子どもはどうなっちゃうんですかと、とにかく守ってやりたいとただそれだけでね、強いとか弱いとかそういう問題じゃないんだけど、そういうお母さんたちの姿見るとですね、男の僕なんかはつい強いって言いそうになっちゃう。

だけどそうかあなたの前向きはそれとも違うんですね。悲観はしたかもしれないけど絶望とかそこまでしてたわけじゃないっていうかね。悲観てのはもしかしたら絶望に比べればまだどうにかしてやろうっていうかね、なんとかしないといけないみたいな気持ちがあって、いやあるんですよ、絶望にも。絶望にもあるんだけど絶望までしないけど結構悲観的になったくらいだったら比べればね、比べれば長期的にも建設的にももしかしたら楽観的にもなれんのかもしれないというか、そういう精神を崩さなくて済む。そうかもしれないな。だけど一回絶望しちゃうとね、それが簡単でなくなるんじゃないですかね。僕はたぶん絶望したと思うんですけど、だからそう簡単には前向きにはなれないっていうかですね、一瞬でも絶望感じちゃうと残っちゃうんですよね、なんかこの辺ていうか全体に。そうするとですね、これがなかなかタフさを要求されるわけです。っていうかね、残っちゃう悲観を絶望っていうのかもしれないですけどね。

ビルの4階の窓の外は晴れている。
よく晴れた空はまったく見慣れてはいるんだけどすぐそこに見慣れない山裾が視界に入ってきてしまう。
 山裾を視界からはずして見慣れ慣れた風景に重ねようと無理をしたら、目と首がくたびれた。

なにをしてんのかね。

目の前に座っているのはなんとまあ偶然にも世田谷から来た人だし、隣の人は埼玉みたいで、そっちの人は茨城でこっちの人はやっぱり東京だったかな。で、窓の外は岡山。

絶望でもないし悲観もしてないけれど、今は多少途方に暮れている。っていう感じかな。

#移住者交流会



kaigo_taxi at 12:04コメント(0)

2017年08月07日

2017年8月7日


「伊福の信号」と言えば地元の人には通じるのかなと思われる市街地の大きな信号で、僕はいつもと同じようなタイミングで右折レーンに入って信号待ちだなと思いながら右によろうとした時、前を行く黒い車種はわかんないけど三菱は三菱に間違いない車が走っていて、見たら倉敷ナンバーだったので、行く方向といい時間帯といい、こういう時の感は僕はよく当たるんだけどもしかしたら先生かなと思って右折レーンにゆっくり停まろうとしながら入っていって、直線レーンにいるその車の運転席を恐る恐る覗き込もうとしたら一瞬向こうもこちらを気にしたような気配があったので、これは絶体だなと思って完全に停止した僕は今度は少し自信をもって覗いたらやっぱり前任校で一緒だった新婚の、いやもうそうでもないお父さんが僕と同い年の先生だった。

「おはようございます」となんだかよくわかんないけどいつもニヤケ顔で挨拶する先生はやっぱり今日も同じで、なんだそのニヤケ顔はといつものように思ったんだけど、いつもと同じなのがちょっとほっとして懐かしい感じで、そのまんま僕は「もしかしてそうかなあと思ったんです。」と勘の鋭い感じでする挨拶で僕をまた少し懐かしんでもらおうかなとちょっと自信ありげにお返しした。

「え、そうすっか。」

また笑う。

「お元気ですか?」

「ええ、今日メチャクチャ混んでますね。」

そうかなぁ。

「先生どちらでしたっけ。」

「高島です。」

「ああ、そうかそうか、お子さんは?お元気ですか。」

「はいお陰様でやっとつかまり立ちはじめて・・。先生学校たのしいっすか?」

「あんまり楽しくないです。」

大きめに笑う。

「先生帰ってきてくださいよ。」

僕はありがとうございますという意味で正面を向いたまま微妙な角度に気を付けて頭を下げた。

失礼しますと言って車を出した先生は直進、僕はまもう少し待って右折。

今日の右折はいつもとは違っていて楽しかった。

自慢じゃないがこういう日常が僕にもある。

まだ完全に旅行気分が抜けず、毎日走る通勤の道路がちっともマンネリしなくて、間際に迫る山もその上の真っ青な空もどこかの地方都市でしかいまだない景色の中に僕はいるのに、そんな僕に懐かしいという気持ちをもって声をかけ懐かしい気持ちにさせてくれる人がいるという事を、僕はなんですぐ忘れるのだろうと少し自戒をし、そしてほんのちょっとかすかにニヤつく。

僕の日常はまだ旅かも知れないが、まんざらでもない。



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2017年08月04日

2017年8月4日


勤務する中学校での司書の先生の計らいで企画して頂いた特別講座終わりました。参加者は少なかったのですが、移住者の方の参加で司書の先生と様々なお話が出来ました。

僕の場合学校が職場という事で、チャンスさえあれば何でもお話させてもらおうと思っていますので、今後もそういうチャンスをどうやって作るかを考えていたいと思います。岡山の司書の先生の繋がりは強いそうで、これからどう連携が取れるかというのも期待したい点です。

移住者はそれぞれの生活の中でいかにその外と繋がっていけるかという事を模索しています。小さい事の積みかさねが何より大事という事を今日も痛感しました。

自分の事をお話しするというのは後味の悪いものです。しかし、311以降の僕たちの極めて個人的な経験はとても多くの意味のある情報だと思います。自分の事をお話しするというのは難しいし辛い事ですが、これは少しずつでも伝えていかないといけないのではないかなと、僕は感じています。

今あらためて思うのは、当事者として、広島や長崎の原爆体験や自身にふりかかった様々な出来事を長く言い伝えてこられている方が、いかに辛抱強く、必死に、誤解に耐え、苦しみながらも伝え続けているかという事です。

「最終的には当事者の事は当事者自身が伝えていくしかない」

という思いを様々な当事者、そして今日参加してくださった皆さんと共有できたのかなと思っています。

チャンスがあればいつでもどこでもいくらでもお話します。パワポが勿体ないです(笑)。
また少し、理解の輪は広がったと思います。

ここにこそ、やる価値はあったのだと思います。
また機会あれば。



kaigo_taxi at 12:27コメント(0)

2017年07月29日

2017年7月29日

職場の学校で移住の話をするのはちょっとしたタイミングとやはり相手次第みたいなところがあって、今回はなんでこんなことになったかと言うと4月に異動されてきた司書の先生に司書室のパソコンのケーブルを通すための穴を壁に開けてほしいとお願いされたことがきっかけだったんだけど、この新しい司書の先生は僕にいろんな事を頼んでこられて、おかげで今まで一回しか行ったことのなかった図書室にもう何度行ったかわからなくなりつつあるんだけどそれはそれでまあ有り難いといえば有り難い。

僕は仕事に対してはこっちに来てこだわりの類いが一切なくなっちゃったから別に頼りにされようがされまいがそんなことどっちでもよくなっちゃったんだけど、学校で今一番話しやすい先生が来たばっかりの先生っていうのも、まあ人ってそういうところ面白いと思う。

そうやって、僕は職場の人間関係については頑として一切悩まなくなったんだけど、だからこそ僕は、僕ねえ新しい司書の先生大好きなんですよってまた違う大好きな先生に言えるようになったのかもしれない。

 パワポの時間、あとなんとか15分は減らそう。



kaigo_taxi at 13:45コメント(0)

2017年07月07日

2017年7月7日


僕が岡山に来た3年前に比べると多少は落ち着きましたが、それでも毎週のように移住者の交流会は開かれています。

官民問わない様々な支援組織やそれに携わる地元の方々や自らも移住者である皆さん、そして個人でも、地元の方、自ら移住者である方がメーリングリストなどで参加者を募って工夫を凝らした様々な企画をされたりしています。

僕もいろんな交流会や講演会をやりました。今は定期的にバーベキューをやっています。

 ある程度のイベントや交流会等については、複数の移住者向けのMLに登録していますので把握していると思いますが(これはたぶん移住者の中では多数派だろうと思いますが)、もちろん全て把握しているわけではありません。ですがそれらで知りうる限りのもの、また、自分が行ったものの、特に参加者の募り方については、福島からの移住者とか関東からの移住者であるとか限定せずに行われていると言っていいと思います。

夏の保養などについてはその限りではないですが、移住者は特に“どこからの移住か”という事については参加呼び掛けの際において、限定するといった告知は僕の記憶ではほぼないように思います。

“移住者交流会”には、福島からの人も神奈川からの人も集まります。それが今まで幅広く続く岡山での移住者交流の状況なんだと思います。

交流会の度に自己紹介があって、“○○から来ました”と挨拶をするのは、もう恒例行事と言っても良いかもしれません。

そうやって同じ交流会に参加する事においては、移住者同士はどこから来たか、という事について比較的わけ隔てることなく繋がっているのだと思います。

僕はどこから来たかを問わず、いろんな人が交流するのは良いことだと思っています。今もそうです。原発移住あるいは原発避難した皆さんには様々事情を抱え、考えもそれぞれ違いはあるものの、あの時の“絶望感”は共有できていて、その時から続く強い思いの多くは重なっていて、だから、移住者は繋がることが出来ていけると考えていました。

ただそこには誤魔化しがありました。

皆が移住者として理解しあう事が出来るのはよいのですが、ではなにが繋がっていたのかというと、互いのあわれみというか、大変な思いを互いにした事に対しての慰め合い、いたわりあい、心の拠り所を求め会う、そういう繋がりかたに留まっていたような気がするわけです。

それがダメと言っているわけではないんです。繋がりかたには違う方法もあるのではないか、という事をこれから話そうと思っています。

互いをいたわりあう事で繋がることも大事だけど、互いに持っている権利を認めあう事で繋がることは、より僕たちの心的物理的な救済には有益なんじゃないかと思うわけです。

くちはばったいので言い替えればこうです。

あの時、葉もの野菜が汚染れてるかもしれないと思って必死に洗おうと思ったけど、その洗おうと思った水道水が汚染れてるかもしれないんだと気が付いたあの時の絶望感を、僕たちは悲劇として共有するのではなく安心していきる権利を阻害されたとして互いに認識し合うべきだったんじゃないかと思うわけです。

大変だったよねではなく、大変な人権侵害だったよねと心でなく権利の傷付きについて、僕たちは認識し合わないといけないんじゃないかと、思うわけです。

今、移住者の間で“比較”はタブーです。

それは互いの苦難をいたわりあうからタブーになるんだと思うわけです。

しかし今、比較は必要です。なぜか。

苦難、具体的に言えば避難かもしれませんが、これを比較しなければ正当な権利の補償は訴えられず、したがって得られもしないからです。

不幸を比較は出来ませんが権利は比較出来ます。

チェルノブイリ事故の様々な教訓は、果たして生かされているでしょうか。当時のソ連は除染をやめ住民を逃がす選択をしました。そして市民は権利を獲得しました。では日本はどうか。

その事について考える事は、決して時期尚早ではないと思います。

僕は原発事故か憎いです。一生恨んでも恨みきれません。だからこそ、権利の主張は必然だと考えます。そして法に委ねてみたいとも感じるわけです。

僕らの国は法治国家ですので。



kaigo_taxi at 15:02コメント(0)

2017年07月06日

2017年7月6日

夏休みに司書の先生の計らいで特別講座という事でお時間を頂く事になりました。タイトルはどーしよと聞かれたので「岡山現象」について、っていうくらいにしといてくださいとお願いしときました。一時間あるので、今までの経緯はもちろんですが、今感じていることも伝えられたらなと思います。なので、今感じていることを整理しないといけません。現実を伝えることの大変さ、根気のいる仕事であることをひどく感じます。原発事故に影響を受けた当事者の一人として話をしたいです。



kaigo_taxi at 15:05コメント(0)

2017年06月21日

2017年 06月 21日


ブログはfacebookやtwitterに比べると記録として自分の書いたものを残そうと思うと都合がいいいので、これはあくまでも福島第一原子力発電所の過酷事故によって翻弄された一家族の記録としての記事として僕も書き、またこれを読む方にもそう読んでいただけることを前提にしてここに書き残す事が出来れば、何かのお役にたたないまでも事故の風化、原発避難という事実の風化を防ぐためのほんの少しのとっかかりにさえなればと、避難移住丸3年を過ぎた今また思い新たにしなければいけないなと、思いは強く、実際はなかなかはかどらず、しかし今こうやって書きだしたことについては、一生懸命自分を評価しないといけなとも思ったりします。


2017年6月21日。近況です。今一番頭悩ませていることは、「帰郷」です。8月に休みを取って両親を兵庫か岡山のコテージに連れて行ってBBQなどして過ごすのはどうかと、神奈川の相模原にいる弟から1か月弱前にメールが来ています。

76と75の両親はここでも何度かお話したかもしれませんが、2014年に岡山に来て以来6~7度、もしかしたらもう少し、岡山に孫に会いに来ています。こちらからなかなかいけないという事があり、来てくれるのは有難いのですが高齢です。何度も何度も来い来いとは言えず、さすがにもう毎回毎回来ればいいよとは簡単に言えなくなっています。

“そっちが都合つけてくれるなら、そのほうが話は早いよ”と、弟はこちらの返信に応えてきているのですが、そこからなかなか僕の方の返事が進みません。どうしたものかと考えるでもなく考えて、数週間経とうとしています。

行きたいところ、会いたい人、ない訳ではありませんがやはりどうしても気が引けます。

これをどう言い表せばよいか悩んでいるうちにどうでもいいような言葉を並べてしまいます。“気持ち悪い”と言うのはなかなか言い当てているかもしれません。原発事故後、岡山に来るまでの3年間、僕の目には東京の空気は黄ばんで見えていました。放射能は目に見えないと言われますがホントにそうなのか疑問と言えば疑問です。

それではあの時見えていた黄ばんだ空気はなんなのか。

たまに“放射脳”という言葉で僕を揶揄する方がいらっしゃいますが、ご本人は揶揄のおつもりでお書きになるのだろうけれど、受け手の僕は揶揄でもなんでもなく事実であるかもしれないとむしろ同意しているという事はなかなかお伝えできないことなのですが、果たして放射能とは何者なのだと、思い悩むしかない状況は、全く何も変わっていませんし変わらないかもしれません。

いずれにしても、きわめて主観的にとあえて断ってからいうのも悔しいのですが関東は我が家にとっては娘を連れて行くのには不安な場所になってしまいました。

思い出のほとんどは関東にしかないのですが。
しかし娘の思い出のほとんどは岡山にしかないのも事実です。

行ってきけなくもないのですが、行かないですむなら行かないで済ませたいと思いますが、あと数年はそうはいきません。

娘がいなければきっと東京にまだいたと思います。他に行くところがりませんので。

取りとめなくなりそうです。駄文は破棄が原則かもしれません。

遺書として、ずっと自分の遺体は絶体に人に見せないでほしい。眠ったような顔を見られるなんて御免です。そんなプライバシーの侵害はありませんと言っていますがもう一つ、最近遺骨は粉にして東京に撒いてほしいというのが加わりました。年初に書く遺書には来年からキチンと書くことにします。

やはりとりとめがなくなりました。

一応記録として留めます。

また書こうと思います。


次回に続く。



kaigo_taxi at 10:58コメント(0)

2017年04月23日

2017年4月23日

こんばんは。

実は最近くたびれておりまして、それは1ヶ月近く治らない鼻声と何とも言えない虚脱感のようなものが取れなくてそれが原因のひとつかと想いますが、それよりも前からどうも笑うのにちょっと苦労していてどっちがどうなのかわかりませんがともかくぼやあっとしている感じで過ごしています。(これを書き始めたのは数日前で、実は昨日辺りからはかなり体調だけは改善しています。)

自意識の問題で、こういう事を僕はわりと平気で書いてしまうのですが、原発避難の実態を少しでも晒して僕らのような存在を風化させないというもっともらしい理由を用意しつつ、寛容な方々に甘えているのが実状です。

 こういう時はと言いますか、最近と言いますか、頭のなかを出来るだけ整理して、なるべくシンプルにしておこうという合理的と言えば聞こえがいいですが要するに余計な体力は使わないと言いますか頭の中の引き出しをなるべく簡単に事務的に明け閉めしたいという歳を重ねたが故の横着さで、自分を誤魔化しつつ乗りきろうなんて魂胆に打って出ていると言えなくもない気がいたしているのですが、少し頭を整理しようと最近考えています。

もちろん、言い訳として聞いていただく事は前提にさえなっています。僕は自分の責任においてここで言葉を並べるだけですので、それにたいしての評価について規制する立場には一ミリも立っておりません。

僕は岡山に来てからずっとしばらくはなんとか地元の皆さんのなかに入っていこうと考えていました。自分の事を知ってもらうにはまず自分が地元の皆さんの事を知らなければならない。いきなり自己主張したところでいったい誰が聞いてくれるのだ、立場を逆にすればそれが当たり前であることは誰よりもまず先に気付く事だと確信しておりました。

今はそれが少し変化をしています。

敢えて原発避難者として移住者としての立場をはっきりとさせていこうと今は考えています。理由は大きく二つ。

ひとつはいまだ苦しむ避難移住者のための空間の確保のため。抽象的ですが物理的にも精神的にも拠り所が必要な避難移住者はまだいます。そして新たに加わってもいますので、彼らのための空間を確保しなければいけないとういう思いが強まりました。

これはいい悪いではなく現象として当事者の事は当事者でないとわからない事があるからです。そして繋がるとは他者を理解しようとすることだけではなく当事者の当事者としての権利の担保もそう呼ばれて然るべきなのではないかなと思い至ったことも起因します。念のため書き添えますが、僕は当事者と認識している事以外についての理解はむしろ劣っていると主観ですがそう認識しています。

もうひとつは風化を恐れたからです。

移住した人の中には自分を移住者としていつまでもその立場を主張ばかりしているわけにはいかないと考える人もいます。それは体験として理解できます。しかしそこに僕はとんでもない不安を感じました。原発事故が自分の中で消えていく不安です。自分が原発避難移住を伝えなかったら誰が伝えるのだろうと。というか自分の責任において事故を風化させないというのは残された生きる目的の数少ないひとつであることが全く疑う余地のないほどに確定してしまっています。

原発事故をなぜ風化できますか。僕には全然分からない。

立場をはっきりとさせる事は今の僕には神様以上の救いの手です。権利の明確化でもあります。権利に疎い僕らの社会が過渡期を迎えているので余計です。そして手段の整理です。

僕は残された時間の中で最大限に娘を守り取り返しのつかない両親や家族に対しての罪の償いにもならない程度ではあるがせめてもの穴埋めをいかにするかという事を、それが他人には伏せたところにしまいつつも存在するあからさまな感情ではあることを承知しつつ、それを原動力として具体的なものに直して頭の中に箇条書きにしています。

ひとつは避難移住者の月に一度の交流の場づくり。ふたつめは原発災害を公害問題として社会的認知を確定させるための活動、みっつめは避難移住者と政治との繋がりを身近な所で確実に保つお手伝い、よっつめは避難移住者の交流と可能性を模索するグループのお手伝い、そしていつつめはまだ妄想の域にしかない避難移住者による新しいエネルギーの普及活動。

解決する問題などなにひとつとして存在しないという逆説的な言い方は真理に近いところにありそうではありますがそれではもとも子もないので、そういう独りよがりはやめたい気持ちもあって、書き足らないが書いています。

たぶん夢とか希望です。

僕が求めているのは娘が永遠に求めていける夢とか希望。それを彼女にプレゼント出来るか。
 自分が死んだあとの話なので確実にキメておきたい。

そして妻への感謝。

両親の最期の幸福感。

それを忘れることなく、僕は人生を線ではなく点で生きることにしたばかりです。

体調が少し戻り、常人に溶けていく前に書き終えてやれやれと思います。

おはようございます。



kaigo_taxi at 11:45コメント(0)

2017年04月20日

2017年4月20日

広島研修に向けた講演会をやっています。それならば福島のまさに今生きた教材はこの岡山のいたるところに存在していて、この学校にもあって、学校の年間行事計画とはなんと空気を読まない、鈍感な、ことなかれをぶっ潰せない、単調な、慣習なのだろうと一瞬脱力しますが、考えてみれば、広島の当事者の人は、この規定の枠に自分たちの経験を伝える場が出来たときに初めて自分たちの存在を認めてもらえたと、嗚咽を漏らしながら安堵したのかもしれないと、遠い原発事故の当事者のそれを少し楽観的に妄想の中に浮かばせながら想像したりする。ふたつの現実が片方は認知せず片方は絶望する。絶対に解決しない鈍感な海の激流に、ただ体を任せるだけ。
 抵抗するには、今は少しくたびれすぎている。



kaigo_taxi at 11:52コメント(0)
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2014 東京→岡山→ 原発事故という我々の無責任について。 我が家のギリギリ疎開計画 https://t.co/h63Rn0E2fX
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