2017年

2020年02月06日

女たちの避難所 (新潮文庫)
垣谷 美雨
新潮社
2017-06-28




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2017年12月27日

2017年12月27日

一年間お世話になりました。
 岡山での四回目の年越しになります。
 少し早いですがご挨拶書きます。

今年は得るものが多くありました。

 「放射能汚染防止法」を制定しようという運動があることを知ったのは得たもののなかでもとても大きなものでした。

放射能汚染を公害として捉えることで原発や汚染の問題を一人の市民として、また原発事故を機に大きく生活を変えた身として、どう考えながら解決の方向に向かっていけばよいのかの指針を頂いたように思いました。また、汚染から身を守ることを含めた人の権利について深く考えることが出来ました。

もうひとつは「あいまいな喪失」との出会いです。つまり「はっきりしないまま残り、解決することも、決着を見ることも不可能な喪失体験」と定義付けられている理論のことですが、
この言葉を知りこの考え方を伺って、今の自分の状況について少し整理がついたように感じ、そして理解して貰える可能性があることを知り救われた気持ちになれたことは大きなことでした。

原発事故以降、あらゆる影響による様々な被害について触れ、そして自らの翻弄された311以降の生活を毎日毎時刻振り返り疑問を投げ掛け、ある時は悩みある時は嘆きある時は涙し、そしてある時には絶望しある時には希望を持ち明日に向かわないまでもまずは立ち上がろうと踏ん張って来ましたが、しかしそれはあくまでも原発事故を契機に揺れ動かされた自分を含めた多くの、しかし全てではない人たちの訴えであり、且つ、個々に異なる経験と感受性により安易に共有出来ない事を前提にするのは当然の事として認識されるものに違いありません。

それぞれの、きめ細かく細分化されている筈の当事者としての訴えは、それぞれの権利の主張として比較されず等しく発信されてしかるべきで、ある主張は他の主張を否定するために存在するのでは決してなく、ましてや、糾弾などする、あるいは糾弾される類いのものとは明確に区別されなければなりません。

僕は娘に及ぶ原発事故の考えられるあらゆる影響を自分が亡くなった後にまで時間軸を伸ばし検討し、毎日あらゆるものと闘っています。無謀な野望と仮に揶揄されても仕方がありませんが、もって生まれた性分として評価されるのは然るべきとしても、そこで権利の干渉について言及されることについては本意ではありません。

100のうち99が不幸でも残りの1に希望をもつ。
つまり前向きに生きるとはそういうことだと教わり目から鱗の心境ですが、それを受け入れる作業については個性とタイミングは万能ではありません。優しさは受け入れを強制するとき脅威になります。

敢えて比較すれば、僕はまだ恵まれています。築70年の自宅は雨漏りがし、見上げる天井にはその跡が不気味に残っていて、潔癖症気味の僕はいまだに自分の家の風呂の浴槽に座れないでいますが、それでも仮設で暮らし続ける方々に比べたら遥かに幸せです。

そして僕は形のあるものは何一つ失っていません。

50を過ぎでいるにも関わらず両親はいまだ元気で仕事までしていますし、弟が建てたとはいえ、両親が住む家はちゃんとあり、友人知人もそのまま、懐かしい風景も時代の波を払い流せばあった場所に残っています。

全て残っています。なので僕はまだ恵まれています。

その全てと時間的流れと心情的動きが分断されたという事実は見えるものではありませんので、差し当りはあくまで個人的問題として自分で対処すべきはこれまた道理です。

誰でも悩み苦しみます。
そしてそれが全て癒されないまま、人は一生をもしかしたら終えるのかもしれません。

内向きに、そして流れに身を任すという言葉に、救われる気持ちにならないでもありません。

我が子は比喩でない宇宙ですが、その宇宙は出会って一年後に原発事故によりまんべんなく汚染されていきました。

前を向いて歩きたいと思います。
しかしその前に立ち方を思い出さないと行けません。

皆様よいお年をお迎えください。
 是非約束してください。
 僕も約束出来るようになれればいいなと思います。



kaigo_taxi at 13:19コメント(0)

2017年12月22日

2017年12月22日

修了式。先生たちは外に昼めし食べに行く。バタバタ靴箱の音が生徒のいなくなった廊下によく響くよ。

気安く外食しなくなった僕は迷わず弁当だ。ひっそりとした外を伺うでもなく自分の部屋で広げた。

住む世界が違っている。皆の誤解は僕にはなんの障害でもない。僕には確信があるからね。

 伝えたいではなく伝わることを待つ感じ。
それはそれでよいと考える方法を最近発見した。

娘も今頃僕のつくった弁当を学童で食べている。今日はツムツムミッキー失敗したからまた月曜日挑戦してみる。海苔はその残党。

孤独には十分なれている。
とうとう世界中を敵に回すことになった。

娘がなぜかたくましい。
 見透かされてるという僕の錯覚が、どうか当たっていてほしいと今夜もたぶん娘の背中を撫でながら、どっかの神様に祈るかもしれない。

これでも一応餃子弁当だ。

食べ終えた。

#原発避難 #岡山


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2017年12月16日

2017年12月16日

伝えたいという、ただそれだけのためと自分に言い聞かせながら書きますが、僕の能力のなさを差し置いたとしても、それはなかなか独善的なところから出るのは難しく、被害者面するなと言う声は、もうずいぶんまえから聞こえてはいます。

なにせ、見えるものについては僕は何一つ失ってはいませんし、仕事をやめたじゃないですかのご同情については、それは自分の決断があったからこそ失ったものなので、そこにはまだ僕としては自主性を残すわけです。

伝えることの難しさを痛感します。
自分の能力のなさの認識を毎日確実に少しずつ積み上げている感じです。

しかしこれにしてもある程度は311のせいにしているかもしれないわけです。あの前までにしたって、僕は万能に生きていたわけでは無論あるわけがありません。

すとんと落ちてしまえる気持ちの場所が出来てしまって些細な事でそこに行けてしまえる心のシステムが出来上りそれに難儀しているのですが昨晩はまた心はさ迷いだし新たな居所をつくりそうでそれが心配です。

覚悟が出来てしまって、それがちょっと自分でも谷川の二十億光年どころでない寂しさを感じてはいますがそれはなんとか耐えてみたい気はします。

頑張っては相変わらず生きませんが繋げることには懸命でありたい気はします。妻は戦友です。娘は宇宙です。

言いたいことの米粒ひとつ分も言えません。
もしもピアノが弾けたなら。
そうかそういう意味かと30年くらいぶりに気付いた気がしたのは確か今年に入ってからだと思います。

長々とすいません。




kaigo_taxi at 13:40コメント(0)

2017年12月05日

2017年12月5日

岡山に来てすぐに勤め始めた職場に、今日妻は退職の意思を伝えました。3年半家族のために、避難移住生活のために、土日も休まず、そして正規職員になってからは週一以上の夜勤を頑張ってくれました。貯金もなく900円の長靴を買うのもためらった岡山での暮らしが今はなんとかなるようになって、娘がふたつの習い事に通い、将来のための保険にも入ることが出来たのは、ほんとに妻の頑張りがあってこそです。今年中には新しい仕事を見つけ少しゆっくりしてからまた新しい職場で頑張ると言っています。僕も仕事考えようかと言いましたがお父さんは今のままでいいよ、それより心を先に治してねと言われなんともやりきれません。甘えている場合ではありませんがとにかく、娘を守ることが全ての目的ですので進みたいと思います。こんなことを書いていられるだけでも幸せだと思います。ありがとうございます。
#原発 #岡山



kaigo_taxi at 13:54コメント(0)

2017年12月03日

2017年12月3日

これから移住しようとする人に伝えたいことがあるとすれば、風景は意外に大事だということです。風景は他者ではなく自分であり、それはすなわち時間的にも空間的にも連続性や同一性を持ち風景はあくまで主観として存在しているという意味であって、従ってそれを無くすと外科的な痛みさえ伴いかねないという確認でもあります。

連続性同一性を見失うと方向性を失い安定性を欠きます。仮にそもそも方向性や安定性がないと自覚しているものがあってもそれは、実は身体的には断絶されている土地やその緯度と経度、山並みや海岸線、あるいは建物による多少の窮屈さ加減などによって物理的精神的に固定されていて、それはちょうどモノとしての宇宙ゴマが、きちんと台には乗っているのに似ています。
 風景を、人はどのように取得してくのかは今の僕には分かりませんが少なくとも血肉と同等であることは疑いはないのではないかなというのが感想です。



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2017年11月23日

2017年11月23日

311から岡山に来るまでの三年間で外食は5回か6回くらい。鎌倉のラーメン屋さんのHANABIと実家に近い相模原のイタリアンのラリチェッタと福生のオーロラと下北のオーロラと、あと渋谷の焼肉屋、ソウルオブソウル。全部ベクレルフリーで多くのお母さんたちが情報共有してたとこ。その筋では有名というやつだね。外食なんて出来るわけがない、何を食べさせていいかと重苦しく毎日絶望しながら見えない前を必死こいて見続けていたあのとき、このお店たちは暗いその先を照らす一筋の光に見えていた。福生のオーロラにテイクアウト買いに行った時、僕らのことや子どもの事を分かってくれるお店があってくれたんだと、待っている間メソメソ泣いてたんだよ。

今はまだ選んではいるけれど行ける店は圧倒的に増えている。“ゆるんだ”かもしれないけどそれは何より水の心配をしなくなったことが大きい。行かない店食べさせない食材はもちろんある。

今東京で子どもたちを守っている人はどうしているんだろう。水を買っていたことを忘れそうだ。マスクが手放せなかったことを忘れそうだ。玄関で服を脱いでいたことを忘れそうだ。
だけどなんにもちっとも心は落ち着かない。逃げてるまんま旅の途中仮の宿、さていったいどれだろう。

こうではないはずの時間と僕が選んだ方法が良かったのか悪かったのかを考える時間と娘がもっと自由だったはずの時間と妻がもっと優しいはずだった時間と孫娘をもっと愛せたはずのお袋の時間を返してほしい。

人はそれぞれ全然違う世界を実は生きていたりするもんだね。



kaigo_taxi at 12:23コメント(0)

2017年09月06日

2017年9月6日

用務員をさせていただいて丸3年を過ぎました。2014年4月末に東京の汚染から岡山に逃げてきて連休明けからハローワークに通い運送会社さんに6月の1ヶ月お世話になりその間登録していた臨時職員の人員枠に空きが出来、7月から小学校で用務員をはじめました。

当初契約内容は1年。しかし引き継いだ前任の用務員さんにたぶんもう1年出来ると思うよと言われ、半信半疑のまま残り数が月の頃正式にその旨打診をいただき、2015年の確か7月1日にまず丸1年の契約が切れ、あらためて再雇用ということでもう1年の契約になったのですがこのときは1ヶ月、つまり7月2日から8月1日までは、1ヶ月何時間か忘れましたがフルタイムではなくパートタイムとして勤務しました。フルでは出来ず確か半日、つまり1日4時間勤務となりました(勤務日数か勤務時間数どちらか希望で選択出来ました)。

2年目に入り、2年以上の更新はないとずっと言われていましたのでそのつもりで勤務しました。明けて 2016年早々に、4月の新年度から制度が代わり、簡単な試験と面接でさらに出切るようになるとききました。完全に次の仕事を探すつもりでいたのですが慣れていて好きなお仕事なので悩まず続けることにし、7月半ばに試験と面接を受けその月の終わりに正式雇用の旨口頭および書面にて再雇用契約となりました。そして7月31日退職、8月1日を挟み8月2日から契約期間1年で再雇用となりました。

この間2016年3月に小学校を異動になり4月からは中学校勤務になっています。

新しい制度でまた試験と面接を受ければ続けられルということで2度目の試験と面接を受けたのが今年2017年の7月、先々月ですが、雇用の正式打診がその末、そして先月8月2日からまた1年契約で、結局この夏から僕は用務員4年目をスタートさせています。

今年の8月1日は従ってまた1日無職でした。



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2017年09月01日

2017年9月1日


原発事故をどのように記録に残すかは、私たちにかかっているような気がします。あらゆる形で影響を受けた方々はどうやって自分の経験をお残しになっているかが気になります。

いつまでも、辛い気持ちのままいることなく前向きに人生を考えることは大事ですがそのなかで過去の経験を伝えるあるいは残していく事はなかなか難しい。

過去の被害は被害にあった者自らが伝え残さなければならないのは、当事者と認識するものされるものの権利について徹底的に黙殺していく社会の住人であるのならそれは全く本意ではないがある意味宿命なような気もします。

 極めて利己的で主義主張激しかろうとその記録の評価者はむしろ自称他称問わない将来の歴史家ではないかなと、決して言い訳ではなく思います。

僕の場合、娘に伝えておきたいという微かな願いもあります。

原発を四基1度に壊した民族は我々が初めてです。責任と言うと無責任な僕には大袈裟ですが、なるべくありのままを伝え残す手間は、しておいてもいい気がします。



kaigo_taxi at 16:02コメント(0)

2017年08月25日

2017年8月25日 ·


お袋の寝息が聞こえる夜が何日か続いています。そろそろ1週間くらいだと思います。

きのうは僕も妻も仕事だったので、学童を休んでいる娘と二人で留守番を頼むことになりました。朝娘を呼び、ご飯がジャーにあることと海苔が食器棚の一番下の引き出しに入っていることを伝えて、いいかい、お昼はツギちゃんに海苔巻き作ってもらいなよ、ちゃんと教えてあげてやってもらいな。ツギちゃんはおばあちゃんなんだから、頼むねと言いました。娘はなんとなく分かったような程度の返事をしましたが案の定というかなんというか、どういう経緯か分かりませんが、どうも娘が自分で海苔巻きをつくったらしく、夜勤に出かける妻が写真をつけてLINEでそのことを教えてくれました。

昼めしもそうだったのですが、今日一番の心配は娘の習い事で、あらかじめ弟に、ばあさんが娘と一緒に教室まで歩けるかどうか確認したらたぶん大丈夫だろうと言うので、お袋には今日は娘の送りを頼みました。お袋には何かあったら電話をするように言っておきましたが、出かけの予定の時間を過ぎ到着するはずの時間を過ぎても電話が静かだったので、暑いなか、なんとか二人で行けたかなと少し安心した頃に着信がありました。僕は家に戻って来たよ、なんとか送ってきたよというお袋の声を想像しながらスマホを耳につけました。

「暑くてさあ、疲れちゃってさあ、塾で待ってるから」

なんだまだいるのかよ。

「なんだ、教室にいていいって先生言ってくれたの」

「いやいや下だよ。下で待ってるから。」

「下って外かい?」「そうそうだから待ってるから。」

37度。

なにしてんだよ。

気が付いたら、お袋はそれこそ縁もゆかりもない場所で炎天下、僕を待っていました。

なんでお袋は岡山のこの場所で一人ポツンと暑いなかいるんだろうと不思議になりました。

俺はなにさせてんだろうという風に。

「もう終わるから。行くから。」

「ゆっくりでいいよ。」

すぐ行くよ、なに言ってんだかな。

お袋は建物をL字で囲む煉瓦の塀にちょこんと座っていました。一応ちゃんと帽子、被ってる。

クラクションをギリギリ小さく鳴らしたらすぐに立ち上りこちらに歩いてきます。

なんだその無表情。

やれやれ。

よく冷えた車の中で僕は娘を待ち、お袋は今度は孫を待ちます。

テレビの音。

今日は暑かったよ、今日は特別暑かったよと、僕は今日は誰でも暑かった事を強調した。

世話がやけたのは僕だったはずなんだけど。

お袋は大人なんだか子どもなんだか今はこっちがよく分からなくなりました。

うん、僕ら親子はどこに今いるんだろうかね。

なるべくなら早く知りたい。



kaigo_taxi at 10:27コメント(0)
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