2015年
2015年06月07日
この週末、娘の運動会を見るためにお袋が弟と共にまた岡山にやってきました。
お袋の首元はなんだかいつの間にしわしわになりつやがなくしみだらけでこぶみたいに膨らんでもいました。コンビニのおにぎりなんかもう食べ物じゃないとあれだけ言ったのに途中で買ってきた昆布の入った簡単に取れて簡単に海苔を撒けるとっても便利なおにぎりを娘の前で平気でお膳にのせて、自分用だと言いながら娘にも分けて食わせていました。
なにをしてんだろう。
聞き訳がないと思ったが聞き分けとは所詮主観的なもので押し付けられないものだという事をまた気づかされたが、それにしてもお袋は変わらない。
徹底している。
弟が心配した認知症が実は始まっているんじゃないだろうかと気になるくらいです。それも、自ら進んでボケようとしているようにさえ僕には感じた。
痛々しい。
何かについて明らかにお袋は諦めている。
昭和16年だから今年いくつだろう。
計算もいやになってきた。
あと何回来られるだろう。
そんなに来い来いとは言えなくなる。
かといってこちらから行くのもなにかと厄介だ。
お袋はあと何年生きるだろう。
5年かな、10年かな、お袋のお袋は90過ぎまで元気だったから15年の可能性もないわけじゃない。
僕に似て神経すり切らす方だからそんなには持たんだろうか。
世田谷から神奈川の実家まで早く行けるようにわざわざ第三京浜の玉川IC脇に住んだのにそのもくろみはたった数年で水の泡。
高速料金どこまで行っても1,000円にまたなってくれないかな。旅費を生活費にちゃんと入れて今度の仕事は探そう。田舎に住んで自給自足になったら行きづらいかな来づらいかな、むずかしいな。こっちに皆で来いと言えばいいなんて簡単に言うなよ。弟の人生は弟が考える。勿論言ってはみるさ。あと何年したら娘は自分の食事を管理して一人で東京へ行けるようになるだろう。それまでお袋持つかな。
RSKバラ園に行ってもバラなど全く目に入らずそんなことばかり考える。
親子とはなんと面倒くさいもんだろう。
生きるとは何て面倒くさいもんだろう。
面倒くささがいいのだけれど、痛痒い心地よさに塩を塗ったくった奴がいる。
原発反対。
次回に続く。
2015年06月03日
久しぶりに書いています。近況について書きます。
岡山へ移住後、一年間住んだお試し住宅を出て現在は岡山市北区のJR岡山駅からほど近い古い街並みの残る住宅地に一軒長屋の一世帯分をお借りしてこの3月から住んでおります。古民家風の建物は痛みが激しく、そのかわりというわけではありませんが家賃は破格で、それはこの学区でよくこの金額の物件が探せたねと感心されるほどで、お陰様で家計的には大変助かっておりまして非常にありがたく思っています。不動産屋にはお好きにお直しくださいと言われておりまして、それではと、今後は多くの方が気軽に来ていただけて、いろんな話ができ、いろんな交流が生まれるスペースを目指しながらこの家をつくっていこうと思っております。
仕事ですが、妻はお陰様で高齢者施設で社員としてバリバリ頑張っています。僕は市の臨時職員の学校の用務員として働いておりましてそろそろ一年になろうとしています。再度契約をしていただき、あと一年間は今の仕事を続けられることになるかと思います。
月日の経つのは早いものだなぁと思います。
娘ですが、引っ越しをしてからお陰様で公立の保育園に通っております。自主性を重んじる保育園で果たして娘はやれるだろうかと当初心配していましたが、何とか頑張ってくれています。お友達の名前も娘の口からたくさん出てくるようになりました。男の子の名前が多いのは少し気になりますが、汗。通園も近く便利で、毎日主に僕が送り迎えをしております。保育園の準備や毎日の食事など、まだまだですが少し慣れてまいりました。妻は仕事を頑張り僕は家事を頑張るという我が家のスタイルが少しづつ出来てきたように思います。
まだまだ多くの不安が残っておりますがなんとかやっております。不安な将来をしっかり見つめて善後策をひとつひとつクリアしていく事を我が家の生活の基本にしていく必要があると思っています。
そういう意味では娘の天真爛漫さにはおおいに助けられています。挨拶と英語の発音はうちの娘は他の子には負けません。自画自賛ですが。
あと一年間、学校で働かせていただくことになると思いますが、これはまたとないチャンスだと感じています。出来ることがあると思っています。それも含め今後一年間の「めあて」を考えています。
1.次の仕事について考える事
2.避難や移住などについて、先生方との情報共有する事
3.図書館に放射能あるいは原発に関連する本を置いてもらう事
4.移住者として地元に還元できる活動をはじめる事。
僕の今後の岡山での生活は、原発や放射能、また避難や移住について深くかかわるものにしたいと考えています。311以降大きく変化した価値観を埋めるものは数少なく、これらの事について微力を使わせていただく事以外になかなか今後の指針が見当たらないでおります。たったひとつ、はっきりとした目的が持てるという事は嬉しい事ではありますが残念なのは自ら進んでそうなったわけでもなくまた多くの被害者が今この瞬間にも存在しているという事に尽きます。これからの一年間で何をどのくらいできるかわかりませんが方向は定まっていますので悩むことなく進むことが出来ます。具体的な事柄についてこれからしばらくはこのブログでお伝えしていきたい、またできたらいいなと思っています。
以上、次回に続く。
2015年05月20日
2015年05月08日
きのうも17時45分くらいに保育園に着いて、18時までに迎えに行かなくちゃいけないことになっているからか子どもたちは教室ではなく園庭で遊んでいて、その中からいつものように集団ではなく、一人きりでもないところから娘を探したら、砂場で彼女は何人かの帽子の色の違うお友達と砂遊びの道具を片付けていた。
片付けなんてうちじゃしないじゃんかと黙ってみていたら色の違う帽子の女の子が娘の前に立ちはだかり自分の遊んだ道具は自分で片付けなきゃいかんねんぞ、とかなんとか声をあげた。娘はぎゅっと固くなってその子を見たまま先生が早く片付けなさいと促すまで動かないでいて立っていた。泣かずに片付けるのでなかなか頼もしいと感じていたら見つかった。いつものようにお父さん!と言って走ってきた。
お疲れさん、帰ろうか。
さよならの挨拶をしてリュックを背負うとまたさっきの子がいて鞄が違う、売ってるとこ教えちゃると来た。なかなか手強い相手だな、娘。
今日はどうだった?と聞くといつものように楽しかったと答えた娘とまたいつものように隣の公園で少し遊んで帰った。
おはようございます。
次回に続く。
2015年04月30日
ヘチマとスイカをつくることになりました。もうひとつ畑があるのでもうひとつやる事になるのだともいます。残っている支柱使って朝顔やります。キュウリもいいですねと専科の先生にアドバイス貰いました。子どもたちの手前、僕は栽培のプロという事になっています。みんなはじめてやります。今年度はすべてに詳しいベテラン先生がいらっしゃらないので皆僕のところに来ます。どうして先生は門外漢なものについては“ご指導ください”と皆言うんですかね。指導されたいのはこっちなんですけどと思うのですが、まぁ何とかなると思います。311以降ありとあらゆるものが呑気にやれるようになりました。こだわりが一切なくなりました。そんな事に一喜一憂するような場合ではない世界に生きていますので。大げさかもしれないが小げさっていうわけでもないってなもんです。
おとといの飲み会ではやっぱり僕と“岡山の先生”との間には見えない仕切りがあるように思いました。接点のせの字もないんだもん。24歳の先生に僕が24の時は歌舞伎町でパブのボーイやっていましたと言って人生観語ったところで大して役には立たないですし、彼はもう人生決めてしまったわけで僕は人生決めずにここまで来ましたのでアドバイスもへったくりもないのですが、ただ彼には見えないものが僕には見えるんじゃないかなという予感はどっかあったりするわけです。
新年度に入った途端それまでクラスに入れなかった子どもが何も言わずに席に着き一日クラスで過ごしたことを職員室でベテラン先生含めて皆で驚いていたのですが、それに僕は驚いたわけですどうしてそんなことがわからないんだろうって。先生はなんでも知ってるし何でも分かるのかと思っていたら結構そうでもなくて、たしかに凄いなと思う事はあるのだけれど世界が狭いから気の毒だなぁと思えて仕方なかったりはするのですけれどね。東京のプー太郎は岡山の先生たちの中で今とっても初々しい体験をしているなっていう思いで一杯でいます。
そして僕は彼らに伝えられることが山のようにあってウズウズもしているのですがはたしてそんな見えない壁を乗り越えるようなそんなタフなことが出来るのかというかそういう事が起きるのだろうかと自分のことながら興味はあるのですが確かにそういうチャレンジはタフはタフではあります。
次回に続く。
2015年04月19日
弟は湯郷温泉で一番いい部屋をとっていた。親父とお袋は仲居さんに恐縮し娘ははしゃぎ僕と妻は広い部屋を狭く使う。祝金婚式と書かれた持ち込みのケーキは明日の朝のデザートになり、僕は保冷剤に望みを託している。僕は弟が我が家のためにとっていた別のもう一部屋で毎夜と同じに眠れないでいる。たくさん飲んだアルコールは昨夜娘が寝る前のオシッコに行ったかどうかを教えてくれない。おねしょが心配なのです。
起きている物事が交錯する。幸せというのは強烈に歯痒い。素直は素敵な事なのか、考えあぐねそう。
雨音が激しくなっている。きのうは最高にいい天気だった。雨神話は続く。
保育園の帰りに娘は落ちた桜の花を拾う。
天真爛漫はそれでも女の子を忘れないんだなと僕ははにかむ。
次回に続く。
2015年04月18日
2015年03月21日
2015年03月19日
2015年3月19日 ·
無事麦わら帽子を被って卒業生を送り出し、給食ではなくお赤飯入りのお弁当を職員室で皆で食べ、6年生の担任の先生が6年間の思いを必死にこらえ挨拶をし、特別な卒業式に若い先生たちは目を赤くし、ベテラン先生はピアノを間違えたと苦笑いを浮かべ、それでも皆は皆をいつもと違う許し方が出来ている。雨は降っていたけれど晴れ晴れとしていたクソガキ連中はいつもになく素直に僕のおめでとうと言う声にウンと頷いた。たぶんこの日があるから先生は先生という職業をやめられないのだろうなと想像する僕の吸う空気は高揚していて、職員室の主が今日初めて僕になった。みんなよく頑張ったねと。昼食後の和みの職員室に卒業生が訪ねてきて僕を見つけ来い来いと手招きする。チャンカワイをやってくれと約束していた彼だった。時にドスをきかせてチャーンと僕を呼ぶその子はきのうから照れ笑いを見せるようになっていて卒業式も終わって帰ったはずなのになんだろうと思って校庭側のガラス扉を開けてどうしたんだよと言うとありがとうございましたと言って手を差し出した。僕は一瞬も待たせたくないと即座に手をだし彼の手を握った。いつも名字にさんをつけて呼んでいた彼を今日は君と呼ぶ。もうちょっと、もうちょっとだけ素直になれば、君は素晴らしい人になれるよ。だからもうちょっとだけ素直になんなさい。そういうと彼は初めて見せる素直さでウンと頷きハイと返事をした。また遊びに来なさいといってやるとまたこくんと頷く。
人は素晴らしいと思える一日だった。職員としてたぶんあと一回僕は卒業式を体験できる。史上最大の悪がき集団の卒業式が楽しみになった。
おめでとう。