我が家のギリギリ移住計画

2019年01月03日

年末の27日に引っ越しました。場所は以前の家から一キロあるかないかくらいの隣町の戸建です。2014年に岡山に来てお試し住宅に一年、そのあと北区南方の築五十年はくだらない六軒長屋の真ん中に居を移してそこで三年十か月暮らした後の今回の引っ越しです。

南方の住まいは期間が一年のお試し住宅の期限が切れるのを前に、2015年の正月早々に数か所の物件を回って内覧した中から選びました。非常に古く、建具と柱は明らかにどちらかが斜めになっていて、きちんと閉まらず日当たりにしてもさほど良くなく、また風呂やトイレの状態も決して良かったわけではなかったのですが、なんとか娘を行かせたいと思っていた小学校の学区内で、そこと同じ家賃でほかの物件を探すのは相当難しいことではないかと考え、またお試しの期限も迫ってきてたこともありましたので、ここしかないこれも縁だとほぼ即決して決めました。住んでから雨漏りすることがわかって結局その部屋は最後まで使わずじまいにもなったりと、いろいろ古いが故の苦労もいくつかはありました。

僕や妻はこの家をおそらくは一時の住まいと考えていたと思うのですが娘は違いました。確かに4歳からの4年弱という期間を過ごした家ですので僕らとは思い入れが違うのかもしれません。名残惜しいこともなんとなく言っていました。

なんとか同じ学区で新しい物件はないだろうかと半年ほど前から情報を入れておりました。というのも実は今回の引っ越しのそもそもの理由が「立ち退き」で、半年前に不動産屋から伝えられたのが始まりでした。納得できる条件提示のようなものがなく、こちらも移住支援してくださっている弁護士さんに相談したりしてしばらく静観していたのですが、半年後になにもないままに再び立ち退きについて切り出されましたので、今度はこちらから条件提示するなどして具体的に引っ越しについて考えだしました。不動産屋から再び立ち退きの件を聞かされたのが11月、引っ越しを決めたのは12月に入ってからです。そして具体的に考える前から目星をつけていた物件を内覧などしてそちらの不動産屋とも折り合いをつけていきながら今回の引っ越しになったというのが経緯です。

引っ越しが年も押し迫った27日でしたので、年末年始の正月休みはひたすら荷物の整理に明け暮れました。今回の引っ越しが岡山に来てから2回目で3軒目の家ですが、今までの住まいと違ってこの家には当分住むことになるだろうなとか、当分住んでいたいなというふうに思っています。最初のお試しは1年の期限付きでしたし、前の家はぼろぼろでどれだけ住めるか正直わからない、引っ越しの初期費用もほとんどかかっていないから出ようと思えばいつでも出られると思いながらおりましたがそれとは少し違っています。

前の家は家賃が安く希望する学区でしたが、お試しを出てからのとりあえずの家、住めるならどこでもいいというふうに思って住んでいました。それはたぶん、自分は逃げてきた、という思いが強いために住まいに頓着せず、それに岡山に根を下ろして新しい生活を作ろうなどというような気持ちにも簡単にはなれないということはあったんだろうと思うのですが、そういう先の見えない思いのようなものは、311以降ずっと途切れることなくずっと持っていたもので、状況の変化はあれど根底には消えずずっとそこにあるものだとは思います。


いったいどこへ行くのだろうという思いは、自分たちのことでもそうであり、また原発の行く末、この国の行く末についても同じ思いであったのかもしれません。知らない土地であろうと地域になじまなければならないというのは、こういう思いのある僕には正直厳しい言葉でもあります。しかしそういう思いははたして持たなければいけない思いなのだろうかという素朴な疑問も出てきます。
つまり、原発の過酷な事故に対しての我々の権利がより明確であれば、もしかしたらどんな家でも構わないだとか、この先どこへ行くことになるんだろうだとか、地域となじめず辛いなどという思いを、僕はしなくても良かったのかもしれないと思ってしまうのです。
僕は東京の世田谷から逃げましたので、チェルノブイリ法にあてはめても「逃げる権利」は得られないかもしれません。しかし、あなたには逃げる権利はありませんが逃げた際の補償についてはそれを受ける権利がありますと仮に言われたら、どれだけ救われたろうかと思ったりします。

そこはチェルノブイリ法と日本の“子ども被災者支援法”の大きく違うところだなと思います。

新居は築年数は40年と経ってはいますがリフォームされきれいです。庭がなく自転車の置場に困りはするのですが広さや間取りを僕は気に入っています。将来の娘の部屋もあります。片づけは大変ですが今までと違い岡山での暮らしの展望がこの家で見え出した気がしています。良い家にしたいなと、長く住みたいなと、今思っています。そのためにはやらないといけないことがたくさんあるはずです。それをこれから整理してひとつひとつつみあげるように実践できればと思っています。


次回に続く。




kaigo_taxi at 06:14コメント(3)

2018年12月09日

この回から「我が家のギリギリ移住計画」はこのブログに書いていくことにします。

前回の「110」が去年の6月ですので一年以上ぶりのエントリーです。
理由は311についての自分の記録を可能な限りこのブログに集約することにしたためです。
一か所にすべてを集めておくことで個人的な日記であれ何かのお役に立つかもしれないと考えたことと、娘に311からの出来事を伝えるために整理して残しておきたいという二点です。
現在まだ整理の最中なのですが、新たなエントリーはこの整理が終わったらと思っていましたが、それを待っているとさらに整理しなくてはいけない記録が増えていくことになりますので、その手間を省くため最初から記録として整理した形でここに書いていくことにしました。

現在の住まいが立ち退きを迫られ、なかなかこちらの借主としての立場を理解してもらえないまま半年程度を過ごしたのですが、納得いかないままではありますがなんとか貸主側からはギリギリのところでの譲歩を得ましたので、目星をつけておりました物件について具体的に話を進め始めました。

我が家年内に転居します。

今の住まいはお試し住宅の期限が切れるのを前になんとか安くて我々の希望にかなうところはないかと散々探してたまたま出てきた物件で、地区何十年なのかわからないほどの長屋の真ん中の部屋は傾きかけていて日当たりも良くなく、また一部屋は畳の劣化が激しくとてもそのままでは使うことができないような状態で雨漏りもするようなものでしたが、とにかく希望の学区で安く住めればそれでいい、引っ越し費用もほとんどかけることなく済むのだからまた引越そうと思えばすぐにでも越せるという緊急避難的な家として考えておりました。

そうはいっても幼い娘にとっては思い入れのある家ですし、また今回のようなオーナー側からの要請ということであればまた意味は違ってくるので複雑な状況ではありますが、日常のなににつけ、なんでも捨てることが別れに繋がるようすの娘には、今までどおり同じ学校に行けるようにしたこと、引っ越す経緯や僕と妻の意向、それとあなたは将来どうすべきかということを話しました。小学校三年生の娘はうんうんと頷きながら聞いていました。

彼女なりに理解しているなと思いました。

青天の霹靂というわけは決してないのですが、三度自分ではない第三者によってそのタイミングを決められてしまう引っ越しが続くことになりましたが、ただひとつ結果的によかったのはもう少し先の娘の部屋の問題をこれで解決することができそうなことです。そして立地についても夫婦とも満足をしています。

まだ動き出したばかりの引っ越し作業です。忙しい年末になります。心を崩している暇はないのですがこれも穏やかに自分をだましながら時を過ごしたいと思います。

アフター311という世界は僕らの感受性をぞんざいに扱い、僕らは外皮を剥がしたまま塩の海を泳いでいるように苦しみもがいていますが、しかし負けるわけにはいきません。

この世界に是非勝って、娘を素晴らしい未来に送り出したいと思います。

また経過お伝えします。

次回に続く。



kaigo_taxi at 21:08コメント(0)

2017年06月21日

2017年 06月 21日


ブログはfacebookやtwitterに比べると記録として自分の書いたものを残そうと思うと都合がいいいので、これはあくまでも福島第一原子力発電所の過酷事故によって翻弄された一家族の記録としての記事として僕も書き、またこれを読む方にもそう読んでいただけることを前提にしてここに書き残す事が出来れば、何かのお役にたたないまでも事故の風化、原発避難という事実の風化を防ぐためのほんの少しのとっかかりにさえなればと、避難移住丸3年を過ぎた今また思い新たにしなければいけないなと、思いは強く、実際はなかなかはかどらず、しかし今こうやって書きだしたことについては、一生懸命自分を評価しないといけなとも思ったりします。


2017年6月21日。近況です。今一番頭悩ませていることは、「帰郷」です。8月に休みを取って両親を兵庫か岡山のコテージに連れて行ってBBQなどして過ごすのはどうかと、神奈川の相模原にいる弟から1か月弱前にメールが来ています。

76と75の両親はここでも何度かお話したかもしれませんが、2014年に岡山に来て以来6~7度、もしかしたらもう少し、岡山に孫に会いに来ています。こちらからなかなかいけないという事があり、来てくれるのは有難いのですが高齢です。何度も何度も来い来いとは言えず、さすがにもう毎回毎回来ればいいよとは簡単に言えなくなっています。

“そっちが都合つけてくれるなら、そのほうが話は早いよ”と、弟はこちらの返信に応えてきているのですが、そこからなかなか僕の方の返事が進みません。どうしたものかと考えるでもなく考えて、数週間経とうとしています。

行きたいところ、会いたい人、ない訳ではありませんがやはりどうしても気が引けます。

これをどう言い表せばよいか悩んでいるうちにどうでもいいような言葉を並べてしまいます。“気持ち悪い”と言うのはなかなか言い当てているかもしれません。原発事故後、岡山に来るまでの3年間、僕の目には東京の空気は黄ばんで見えていました。放射能は目に見えないと言われますがホントにそうなのか疑問と言えば疑問です。

それではあの時見えていた黄ばんだ空気はなんなのか。

たまに“放射脳”という言葉で僕を揶揄する方がいらっしゃいますが、ご本人は揶揄のおつもりでお書きになるのだろうけれど、受け手の僕は揶揄でもなんでもなく事実であるかもしれないとむしろ同意しているという事はなかなかお伝えできないことなのですが、果たして放射能とは何者なのだと、思い悩むしかない状況は、全く何も変わっていませんし変わらないかもしれません。

いずれにしても、きわめて主観的にとあえて断ってからいうのも悔しいのですが関東は我が家にとっては娘を連れて行くのには不安な場所になってしまいました。

思い出のほとんどは関東にしかないのですが。
しかし娘の思い出のほとんどは岡山にしかないのも事実です。

行ってきけなくもないのですが、行かないですむなら行かないで済ませたいと思いますが、あと数年はそうはいきません。

娘がいなければきっと東京にまだいたと思います。他に行くところがりませんので。

取りとめなくなりそうです。駄文は破棄が原則かもしれません。

遺書として、ずっと自分の遺体は絶体に人に見せないでほしい。眠ったような顔を見られるなんて御免です。そんなプライバシーの侵害はありませんと言っていますがもう一つ、最近遺骨は粉にして東京に撒いてほしいというのが加わりました。年初に書く遺書には来年からキチンと書くことにします。

やはりとりとめがなくなりました。

一応記録として留めます。

また書こうと思います。


次回に続く。



kaigo_taxi at 10:58コメント(0)

2017年03月28日

2017年 03月 28日

きのうの朝、うちから50メートル程度先にある最初の信号から、娘は初めて学校に一人で行きました。正確に言いますと行ったのは修了式を終えていますので学校内の学童です。

去年春に入学した時からほとんど僕が車で送っています。歩けば大人の足で15分位の距離です。集団登校でないので一緒に行くお友達が見つかるまではという名目で送っていましたが結局ほぼ一年、今月に入るまではそのまま送っていました。妻が時々送りますがその時は歩きます。

この1ヶ月くらいからなんとなく歩いて行こうと促しています。学校まで一緒に歩いて行くと僕が遅刻になるので、まず同じ方向の同じクラスのお友達を待ち伏せて行くことにしました。

一日目。なかなか来ないお友達を少し焦りながら待ちましたがやっと来たお友達に一緒に行ってもいい?と聞くとウン、と言ってくれたのでじゃあ行っておいで気をつけてねと送り出すと、娘も行ってきますと返事を返し、元気にいってくれました。

一日目、二日目くらいは良かったのですが三日目から娘が行くのを渋るようになりました。早足で歩くお友達を必死に追いかけるように行く娘を実は心配していたのですが、娘はそのお友達と行きたがらなくなりました。

相性もある様子だったので聞いてみたら図星でしたのであまり無理を言わないようにしました。とはいえ他に同じクラスのお友達もいないのでちょっと困ってしまいました。

もう一人、違うクラスの女の子がいるので今度は彼女を待つことにしました。彼女も来るのが遅いのでやはり待つことにしたのですが、するとすぐそばのマンションから同じ保育園だった一年生の男の子が出てきて娘の名前を呼んで通りすぎていきました。

あの男の子あなたの名前知ってるじゃんと娘に言うと、あっ、あたし行くと言って僕が持っていたお弁当と水筒を奪うように取り上げ追っかけて一緒に行きました。

同じクラスのお友達じゃなきゃ嫌だと言っていたのにやれやれです。

彼はあまり遅くもなく待つことがないので助かります。二日目は当たり前のように手を繋いでいそいそ歩いて行ってくれました。なんだ行けるのか。

保護者同士の会釈。

これから二人で行ってもらえるかなと思ったのもつかの間春休み。
娘は学童、その男の子はお休みです。

という訳で、春休みの間はまた一緒に行く人がいなくなりましたので、そこできのう初めて一人で行ってみようということになりました。

いつもの信号で送り出し僕は駐車場に戻って車で出ます。方向が途中までは同じなので様子が見られます。渋滞が助かります。通学路の半分は見られます。広い歩道で人も多く見通しの良い道路ばかりなのでそこが少し安心です。

しかしヒヤヒヤです。

信号待ちの僕にお父さん気をつけてねと言う娘はなかなか頼もしい。足取りもやっと最近同期生に近づいてきた。

大きな信号を娘は待ち僕は右折していきます。

なかなかスリルのあることです、僕には。

学校がもう見えていますのでそれが救いですが春休み、いつもなら子どもたちが集まってきて当番の保護者のお母さんもいたりしますが
そうではないので気をもみます。

どちらかと言うと僕の方がヒヤヒヤという感じでしたが、なんとか娘は一人で登校出来ました。

僕が心配しすぎなのかそれとも他の保護者の人たちが子どもをちゃんと信頼できているということなのか。

しかしニュースは戦慄です。

テレビのニュース解説者の、私は以前からスクールバスは必要だと言っていますという言葉がやたら虚しいです。

今朝はどうしようと思っていたら代わり番子にしようよと娘が言います。どういうこと?と聞くと歩いて車、歩いて車、と娘の助け船。

そうか、じゃそうしよう。

ということで今朝は久々車で送ってやりました。

明日はそうすると一人で歩きになりますが、僕は今まだ悩んでいます。

娘は少しまた大人になりました。


次回に続く。



kaigo_taxi at 10:51コメント(0)

2017年02月25日

2017年 02月 25日

娘が誕生日を迎え家でお祝いをしました。ここ数年は相模原にこの時期帰郷し座間のラ・リチェッタでお祝いをしていましたが今年は岡山の我が家で3人で妻の自家製ケーキで祝いました。


6年前の今頃は、やっと歩きだした娘が嬉しくてよく近くの多摩川の河原に遊びに連れて行っておりました。くつを脱がせ芝生のような土のような、ちょっとあいまいな場所をかまわず歩かせてやりました。人の親になることの不思議さと嬉しさに、倍以上のはっきりしない広さに広がった世界を頭の中で僕は駆けずり回っておりました。


娘は2月を1週間と待たないこの時期に生まれましたので、1歳になってから2週間であの地震に遭遇することになります。最後に多摩川の河原に行ったのは3月6日。日記に書いてあるのでわかります。日記は便利。その日記は3月10日の夜に将来の事を娘に託したあと暫く休みました。結果的にですが。ブログを読み返すと地震の日から数日はその日も含めなにも書いていません。書いても状況については書いていない。どういういう心境だったのか、当時の自分に確かめてみたいところです。


東日本大震災から6年。娘との時間はほぼ原発事故との闘いの時間です。悔しいがどこかで自分を責めている。怖いはずの原発を忘れることに暫くの間時間を費やした自分をたぶんどこかで僕は自分を責めています。もちろん、責めていてばかりではいけないことはわかっており、毎日今は前を向いて実践的に動いています。目の前に娘がいますので。


記録について考えます。このおそらく稀有な体験をしている311以降の我々には記録を残すことがかなり大事な役目ではないかなというふうにです。岡山に来るまでは震災以降頻繁にこのブログを更新し、カテゴリーを立て書いていましたが移住後はその数が減っています。Facebookがブログの役割をし始めたこともありますがTwitterも含めて自分の思いの整理が断片的にはなっています。自分の気持ちの整理がSNSというハードの都合次第に、このところなっている節があります。記録を残しておいた方がいいのではないかという考えからすると果たしてこのままでいいだろうかと気にもなり今少し記録の仕方について試行錯誤を始めたところです。


記録について考えていることに加え今少し頭にあることがあるので近況としてもう少し書きます。


去年の10月から月に一度旭川の支流で特に移住者に声かけをしてバーベキューを始めました。暫く休んでいたキャンプ道具が久々日の目をみています。これがなかなか好評でやって良かったと思っています。移住者の心情は複雑です。その心をいくらか休める場をつくることは大事で、そういう事なら出来るかなとここ暫くは思っています。


もうひとつの移住者の場として虚ね秋に岡山県議になられた大塚愛さんを囲んだ議会報告兼ねた交流会があります。移住者の思いを何らかの具体的なものにする作業に窮していました。岡山に原発避難者である議員が登場したことは極めて大きな意味があると僕は信じています。ですのでもはやこれはライフワークのつもりで取り組んでいます。移住者の思いは複雑です。


個々のそれぞれの心情については丁寧にひとつひとつ了解しなければいけない気がしています。記録する事とこれは繋がりますがどのように移住者の思考や意思を見えるかたちにするかの作業について考えていきたいです。


ひとつふたつ、その方法として取り組みたい事が具体的にありますが今日は詳細は留めますが、“あいまいな喪失”という言葉に先日出会い、希望を新たにまた見つけたところではあります。考えれば水車の発電とかも、具体的な勉強のテーマとしてありました。メモ書き用ノートが最近役にたっています。


年のせいは往々にしてあると思いますが、最近人生を時間という線ではなく点だという風に考えるように少しなっています。歳を重ねてからの人生の方が面白いという先を行く人の言うことが近頃なんとなく分かります。


また以前のようにブログを気にしたいと思います。


次回に続けます。



kaigo_taxi at 10:48コメント(0)

2016年12月31日

2016年 12月 31日


2016年が終わりますので書いておこうと思います。
夕方4時を過ぎそろそろ午後5時になります。娘が小学校に入り、僕は当初考えていなかった学校用務員の仕事を引き続き出来る事になり3年目を迎えられた年でした。岡山に来て丸2年と8か月を経過、年齢も区切りの50歳を迎えた年でもあります。自分なりには一年一年の区切りは相変わらずつけていたいと思っていますが、それは自分自身でわりとしっかりとできていればそれでよく、あえて仰々しくしてしまうとかえってその形に拘り満足してしまいかねないと少し警戒心も出てきましたので、今年は少しその区切りの仕方を考えていたりしています。

1月です。

1月の気分は焦り。市の臨時職員として小学校で用務員をしていましたが、7月までで契約が切れる。年が明けていよいよお尻に火がついた。次の仕事探しというモードに入ったのだったと思います。1年半ぶりに職探しモードの突入、しかけたのが確か1月。
初旬に娘連れて相模原に帰郷。

2月です。

どうやら7月以降も用務員が出来そうだよと教えられ、少なくとも今の小学校は3月までかもという事で、惜別の思いと仕事についてのちょっとの安堵がまじりあったそんな感じ。いよいよ娘小学校で学童の説明会やらで娘の春も近づいてきた。毎日通う保育園への道が名残惜しい。

3月です。

野党共闘で頑張ってきた仲間とは疎遠になっていた。僕は乱暴で先走るのが自分でも反省材料になるのだけど。7月の参議院選挙まであとたった4ヶ月。

1年9か月の小学校勤務が終わった。体育館でのお別れの会で子どもたちに挨拶をさせて頂いた。送別会では1年9か月前から決めておいたお別れの挨拶の出だし通りに話を始めた。なぜ東京から来たのか、それまでの3年間どうように暮らしていたか、どうして用務員になったか、岡山に来てこの1年9か月どのような思いでいたか、どれだけ先生たちに感謝していたか、思いのそのすべてをお話させていただいた。泣いてた先生もいた。

4月です。

孫の入学式を楽しみにお袋が来岡。5回目だったか6回目だったか。
僕の職場は小学校から中学校になった。夏で終わるはずの臨時職員契約が、その先も続けらる事になった。新しい生活が始まった。50になった。

5月です。

うん、なにしてたかな。

6月です。

7月の参院選めざし、野党共闘の活動が活発の中、僕もなんとか必死に応援しました。娘がECCに行きだした。確かとにかく選挙だったと思う。血圧計買った。

7月です。

携帯壊れて修理に出して写真以外のデータが全部とんだ。参院選。
畑始めた。最近行ってないな、汗。
丸2年の臨時職員の契約が切れて試験を受けて改めて再雇用。
娘がなんとかかんとかプールの授業で顔付けが出来た。過保護に思うが仕方ない。放射能まみれの水で遊ばせるわけにはいかなかったから。

8月です。

親父と弟が来岡。花火見に行った。
移住者交流会、集いあいのワークにこの月から参加した。
移住直後からの月一の庭瀬の集いとこの交流会の二つが毎月の日課になった。
2011年から計3回疎開に行かせていた長崎の東彼杵に行ってきた。
長崎の仲間は元気だった。やっぱり闘っていた。みな闘っている。酒飲んだ。
終りに今度はお袋が来岡。

9月です。

子ども未来の小冊子作成の協力させてもらった。
学校の廊下の壁生徒と塗って初めてこの学校で交流らしい交流があった。

10月です。

原発移住者の多い岡山に“原発避難者”である県議会議員が誕生するチャンスがやってきた。
一生懸命応援させてもらった。見事な結果。
キャンプの道具をそのまま眠らせているのももったいないので、月1で河原で移住者呼んでバーベキューする事にした。この月が一回目。意外と好評。

11月です。

“ニュースでやらない沖縄”はこの一か月で準備した。ひたすら準備。
いい会が出来た。
お袋の誕生日に娘が自転車に乗れるようになった。

12月です。

次の準備。大体できた。来年の布石。今後の人生の布石。今の所自分だけの目論見。

来年の抱負です。

ライフワークが見つかったと思ってる。毎日一日一日確実に生きるということを身に着ける一年になれば。時間との付き合い方を考える1年だったので、それを実行に移す年。
具体的に生きることにします。

家族の平和。

311から時が止まったようだった日々が少し動いている。
闘う意志はあの時から寸分変わらない。
娘を守るためだけの人生に、全く変更なし。

年明けに間に合った。

皆様、良い年を。



kaigo_taxi at 10:43コメント(0)

2015年06月30日

a0021702_16490690

2015年 06月 30日



今日で用務員の仕事が丸一年終了しました。本来の雇用契約では今日で退職という事になりますが、一か月のパート期間を経てあと一年この学校でお世話になる事が出来る事になりました。
あっという間でしたが貴重な経験になりました。今後は次の生活を見据えつつ用務のお仕事務めさせていただきたいと思っています。7月はパートの為勤務が減ります。いい機会ですので今まで以上にイベントや移住者交流の場に参加し様々な事にチャレンジしたいと考えています。
ありがとうございました。

学校の畑で四角いスイカに挑戦中。毎日観察したいスイカ畑。休んでもいられません、汗。

次回に続く。



kaigo_taxi at 14:24コメント(0)

2015年06月24日

a0021702_12113461

2015年 06月 24日


花お好きなんですかと工事で来ている作業のおじさんに聞かれたので、この仕事やる前は花なんて全くやったことなかったですと言ったらえーと驚かれてしまいました、汗。ペチュニアは梅雨の時期の湿り気に弱いそうなのでプランターにこの前貰った藁を敷き、雨があまり当たらない場所に移動させてみました。水やりも花にかけず脇からそっと流し込むようにやってみています。ゼラニウムやロベリアあたりも弱いそうなので雨をしのげるところに移しました。

ミニヒマワリは順調で黄色く花が開きだしました。五つのプランターに分けて植えたポーチュラカは強いので、花芽から数センチのところでポキポキ何本も折って校門脇下段のへりに刺し枝してやったのですが、するとすぐに根付いて花を咲かせました。

たくさんいただいたメランポジウムの苗は校門脇、体育館脇、職員室脇のそれぞれの花壇に地植えすくすく育ち、こちらも黄色い花芽をのぞかせています。

春は種まきと苗植えに運動会。そして夏に向う今は毛虫の観察と駆除。夏は子どもたちのいない学校でペンキ塗りでもしようかと考えています。学校行事盛りだくさんの秋に向えば収穫と今度は秋植え苗がやってきてやがて冬支度。年を越せば一気に卒業式と入学式の準備です。季節を感じる事の出来る仕事。いいなと感じられるようになりました。


原発反対。脱被曝。

次回に続く。



kaigo_taxi at 14:20コメント(0)

2015年06月22日

2015年 06月 22日


この1~2か月、校庭の見回りの時には桜の木をじっくり目を凝らして見ています。夏のイラガの大量発生を防ぐためです。触れると湿疹ができ強烈なかゆみを伴うこのイラガは、この時期に頑張って駆除すればその大量発生をある程度防ぐことが出来ます。見るポイントは写真のような葉の茶色のい変色。これを見つけたら全部取りまわりの葉を見ます。そうすると、


こんな感じでまだちっちゃく一か所にまとまっているイラガが見つかります。これを葉ごと取ります。

根気よく毎日毎日毛虫の駆除をすると年を追うごとに発生する数が減っていくんだそうです。ただ1~2年サボるとまた出てくるそうで、植物とのお付き合いは時間をかけじっくりやっていくものなんだなと勉強になっています。

桜のイラガとつつじのチャドクガ。この二つが目下の憎っくき相手。今日は高枝切ばさみを持ち出しイラガの付いた葉っぱをばっさりやってきました。


次回に続く。




kaigo_taxi at 14:09コメント(0)

2015年06月15日

a0021702_1212798

2015年 06月 15日


先日お知り合いに頂いた藁を学校のスイカマルチの上に敷いてみました。

ツルの位置を固定させるためには方法がいくつかあるようなのですが

藁だと孫ツルが藁に絡まって勝手に固定してくれるんだろうなと思いまして敷いてみました。

最初から藁を敷けば雨や保温や害虫対策になったのか、

昔の人は良く考えたもんだと納得しきり。

マルチの方がより万全ではありますけどね、小っちゃい孫ツルが絡むところがありませんので

別の方法で押さえなきゃいけませんのでそれじゃあなんでもやってみよう

という事でこんな具合になりました。

いろいろ勉強になります。

畑がだんだん面白くなる今日この頃です。


原発反対。脱被曝。

そしてありがとう。


次回に続く。

a0021702_14504970



kaigo_taxi at 14:05コメント(0)
Twitter プロフィール
2014 東京→岡山→ 原発事故という我々の無責任について。 我が家のギリギリ疎開計画 https://t.co/h63Rn0E2fX
ギャラリー
  • 宿題は?
  • 庭。
  • 新居です。
  • 今年は最後に引越しというわりと大きなイベントが
  • 引っ越します。
  • 引っ越します。
  • 今年は生協のピザ、
  • おはようございます。
  • 出来た。
記事検索