我が家のギリギリ移住計画
2019年04月11日
2019年04月04日
今夜も娘が質問部屋に来ました。ノックして入ってきました。布団から顔をだして寝ているレオナルドの横に座り聞きました。今日はねぇ学童のおやつのことなんだけど、出版社がねぇ、東京が多いのよ、それがいつも気になるの。娘はレオナルドにそう聞きました。そおかあと、レオナルドは製造元をちゃんと確認していた娘に感心しました。そして今日はこう答えました。
ほんとのこと言うとねぇ、お父さんもお母さんも気になってるの、学童のおやつ。ひとつは東京でつくってそうなこと。もうひとつは虫歯。そういうお菓子あなたほとんど食べたことなかったでしょう。だからなんだけど、でも、みんな食べてるのに一人だけ食べないのもあなたかわいそうだし、少しだし、あんまりそういうの食べたことないから、だからまあいいかって思ってそれで学童にはおやつお願いしてんの。
だからこういう風にしたらどうだろう、おやつは今まで通りお願いしとくよ。それで食べるとか食べないとか、半分だけ食べるとか、あなた自分で決められる?決められるならどうするか、あなたにお任せするよ。
どうだろう、そうレオナルドが娘に聞くと娘は軽く頷いていました。大丈夫?お任せしてというと、また娘は頷きました。
よしそうしよう、自分で決めて。大丈夫?
うん大丈夫。
そう言うと娘はそそくさと自分の部屋に戻っていきました。
いつの間に、娘は製造元を気にするようになっていました。
そうか。
次回に続く。
2019年03月31日
今朝はまた娘はいつものように帰るおばあちゃんたちを家の外まで行って見送ることはせず、じゃあねとそっけなくお別れをしたあとはずっと家の中でゲームをしていました。母たちが帰ったあと、僕は娘にみんな帰ったよとは言わずに、さあ今日はバーベキューだよとこれからのことを言うと、お父さんはツギちゃんが帰って寂しくないの聞いてきました。僕はあまり気持ちを込めないようにして寂しいけど楽しいこと考えようよと答えて朝のホットケーキと今日のお花見の支度を始めました。娘はお袋にツギちゃん仕事やめたんだから岡山に住めばいいのにとも言っていましたが、母は困った顔をしていました。
毎回別れるために会うようで、それがいつもしんどいといえばしんどいです。母たちは新しい家を見ることを口実に今回岡山に来ましたが、僕はずっと母がこの家に来るのは最初で最後じゃないかなと思っていました。親父は今も昔とあまり変わらずチョコチョコと歩いていましたが、お袋は杖をついて歩くのがやっとと言う感じでした。
311のあとの親への孝行はギリギリなんとか出来ていると思います。昨夜の人生ゲームの最中、昔とまったく変わらないお袋の笑い声を聞きました。少し救われた気がしました。娘のおばあちゃんではなく僕の母親に久しぶりに会えた気がしました。
でもさすがにもうこれからはまた来なよとは言えないなと思っています。
そして期待をかけすぎてもいけないので、僕はお袋にまた行くよとも言いませんでした。
車で一時間の筈が飛行機で一時間になった実家です。それがとても残念です。
本当だったら頻繁に会っていたかもしれないお袋と娘に、僕は悪いことをしたなと思わなくもないのですが、僕がいなくなってからの娘を守ることができる方法を、他に思いつくことができませんでした。それが悪いことなのか、むしろいいことなのかなんていうことなど僕にわかるわけありません。
ただ、誤魔化すことなどとてもじゃないが出来なかった、そういうことです。
娘とお袋が会うのは次はいつになるかなと思います。
どうやらお袋はまた来るねと言ったそうです。僕には何も言いませんでしたが。
二泊三日で相模原の実家から両親と弟が岡山に来ていました。
今朝はいつものように娘は帰るツギちゃんたちを家の外では見送らず、家の中でゲームをしていました。お袋たちが帰ったあとに、じゃあねとそっけなくお別れをした娘にツギちゃんたち帰ったよと言うまえに、さあ今日はバーベキューだよと言ったら、お父さんはツギちゃんが帰って寂しくないの聞いてきました。僕はあまり気持ちを込めずに寂しいけど楽しいこと考えようよと答えて朝のホットケーキとお花見の支度を始めました。娘はお袋にツギちゃん仕事やめたんだから岡山に住めばいいのにと言っていました。お袋は困った顔をしていました。
毎回別れるために会うようで、それがいつもしんどいといえばしんどいです。お袋たちは新しい家を見に来ましたが、お袋はきっと最初で最後じゃなたあかなと思います。親父は今も昔とあまり変わらずチョコチョコと歩いていましたが、お袋は杖をついて歩くのがやっとと言う感じでした。若いのが自慢の母でしたけれど。
311のあと、なんとか親の孝行はギリギリ出来たのかなと思います。昨夜の人生ゲームの最中、昔とまったく変わらないお袋の笑い声を聞きました。僕は少し救われました。娘のおばあちゃんではなく僕の母親がそこにはいました。
もう、また来なよとは僕は言わないことにしています。
期待をかけすぎてもいけないのでまた行くよとも言いませんでした。
車で一時間の筈が飛行機で一時間になりました。
お袋と娘に悪いことをしたなと思わないわけはありませんが、僕がいなくなってからの娘も守ることができる方法を、他に思いつかなかった。
誤魔化すことなどとてもじゃないが出来なかった、そういうことです。
娘とお袋が会うのは次はいつになるかなと思います。
娘がツギちゃんのためにした飾りつけ。もう少しこのまんまにしときます。
2019年03月10日
2011年の3月10日の夜に僕は娘に向けての日記を書いています。生まれる少し前から言葉を書き残そうと思って書き始めたノートです。感謝と未来が書いてありました。その次のページはまるまる見開き二ページ何も書かずにあいていて、その次のページに9月になってから書いています。
今年は1月末からインフルエンザになり、それ以降今に至るまで体調が戻らずにいますがなんとかもう一息で治りそうなところまで来た感じです。毎晩頂いていた焼酎は今も飲む気になりませんが、いくら食べても増えなかった体重が今日あたりから少しプラスに動くようになりました。頭痛に耐える体力消耗が減った分、体重が戻りだしたんだと思っています。年始の引っ越しの疲れも考えると、今年は満身創痍といった感じです。
この二年ほどは以前のようにいろいろな活動には参加せず、専ら心の問題と闘っています。
そして個人の権利について考えることに多くの時間を割くようになりました。
事故後八年を経て、いまだ汚染の実態について我々はそのほとんどを把握せず、可能な限りの社会的な共通認識のようなものさえ持ち得ていません。その中での科学論争はもちろん不可欠だと思いますが、僕は怖いと感じる権利について考えます。逃げる権利について考えます。チェルノブイリ法は科学的に汚染や被曝を区別することですべての当事者に共通する心の問題、僕はそれの多くは喪失感だと思うのですが、それを権利という形において保障しているのだと思っていますが、残念ながらこの国この社会にそういう考え方は一般的でありませんし、伝統的でもありません。大丈夫か大丈夫でないかを本人ではなくその発端を作った側が決めようとし、それにあまり人々が疑問を持たない社会の中で、毎日毎日僕は東京からの原発避難者として途方に暮れています。
僕は当事者ですが、あくまで原発事故の当事者でしかありません。世の中には、様々な事柄に対しての当事者が存在します。社会は、何らかの問題についての当事者たちの集まりでできているということに、自分が当事者だと認識するようになってしばらくしてからそのことに気づきました。なんとも情けないことです。僕は原発避難者として残りの人生を過ごします。そして社会のあらゆる当事者の存在を意識します。
それにはまだまだやさしさが足りないなとは思いますが。
絶望するのをやめるのは意外と簡単です。しかし絶望するのはもっと簡単です。
それが人間だから仕方ないのだと思います。
嘘を知らない娘に嘘はつけない。それが人情です。他に人間が信じられるものがあるなら教えてほしいです。
娘のいる隣の部屋で書いています。もっと書こうと思ったことがあったように思いますが、娘の工作の質問を優先しています。娘は今日は金庫をつくりました。
明日は自分の気持ちのコントロールで一日忙しくなると思います。笑い声がいつにもまして許せない日になります。しかし、許すことからすべてが始まることも一応分かってはいるつもりです。
八年です。長いのですか、短いのですか、それだけでもいいから誰かに今について教えてほしいです。
それでは明日にそろそろ備えます。
次回に続く。
2019年01月03日
年末の27日に引っ越しました。場所は以前の家から一キロあるかないかくらいの隣町の戸建です。2014年に岡山に来てお試し住宅に一年、そのあと北区南方の築五十年はくだらない六軒長屋の真ん中に居を移してそこで三年十か月暮らした後の今回の引っ越しです。
南方の住まいは期間が一年のお試し住宅の期限が切れるのを前に、2015年の正月早々に数か所の物件を回って内覧した中から選びました。非常に古く、建具と柱は明らかにどちらかが斜めになっていて、きちんと閉まらず日当たりにしてもさほど良くなく、また風呂やトイレの状態も決して良かったわけではなかったのですが、なんとか娘を行かせたいと思っていた小学校の学区内で、そこと同じ家賃でほかの物件を探すのは相当難しいことではないかと考え、またお試しの期限も迫ってきてたこともありましたので、ここしかないこれも縁だとほぼ即決して決めました。住んでから雨漏りすることがわかって結局その部屋は最後まで使わずじまいにもなったりと、いろいろ古いが故の苦労もいくつかはありました。
僕や妻はこの家をおそらくは一時の住まいと考えていたと思うのですが娘は違いました。確かに4歳からの4年弱という期間を過ごした家ですので僕らとは思い入れが違うのかもしれません。名残惜しいこともなんとなく言っていました。
なんとか同じ学区で新しい物件はないだろうかと半年ほど前から情報を入れておりました。というのも実は今回の引っ越しのそもそもの理由が「立ち退き」で、半年前に不動産屋から伝えられたのが始まりでした。納得できる条件提示のようなものがなく、こちらも移住支援してくださっている弁護士さんに相談したりしてしばらく静観していたのですが、半年後になにもないままに再び立ち退きについて切り出されましたので、今度はこちらから条件提示するなどして具体的に引っ越しについて考えだしました。不動産屋から再び立ち退きの件を聞かされたのが11月、引っ越しを決めたのは12月に入ってからです。そして具体的に考える前から目星をつけていた物件を内覧などしてそちらの不動産屋とも折り合いをつけていきながら今回の引っ越しになったというのが経緯です。
引っ越しが年も押し迫った27日でしたので、年末年始の正月休みはひたすら荷物の整理に明け暮れました。今回の引っ越しが岡山に来てから2回目で3軒目の家ですが、今までの住まいと違ってこの家には当分住むことになるだろうなとか、当分住んでいたいなというふうに思っています。最初のお試しは1年の期限付きでしたし、前の家はぼろぼろでどれだけ住めるか正直わからない、引っ越しの初期費用もほとんどかかっていないから出ようと思えばいつでも出られると思いながらおりましたがそれとは少し違っています。
前の家は家賃が安く希望する学区でしたが、お試しを出てからのとりあえずの家、住めるならどこでもいいというふうに思って住んでいました。それはたぶん、自分は逃げてきた、という思いが強いために住まいに頓着せず、それに岡山に根を下ろして新しい生活を作ろうなどというような気持ちにも簡単にはなれないということはあったんだろうと思うのですが、そういう先の見えない思いのようなものは、311以降ずっと途切れることなくずっと持っていたもので、状況の変化はあれど根底には消えずずっとそこにあるものだとは思います。
いったいどこへ行くのだろうという思いは、自分たちのことでもそうであり、また原発の行く末、この国の行く末についても同じ思いであったのかもしれません。知らない土地であろうと地域になじまなければならないというのは、こういう思いのある僕には正直厳しい言葉でもあります。しかしそういう思いははたして持たなければいけない思いなのだろうかという素朴な疑問も出てきます。
つまり、原発の過酷な事故に対しての我々の権利がより明確であれば、もしかしたらどんな家でも構わないだとか、この先どこへ行くことになるんだろうだとか、地域となじめず辛いなどという思いを、僕はしなくても良かったのかもしれないと思ってしまうのです。
僕は東京の世田谷から逃げましたので、チェルノブイリ法にあてはめても「逃げる権利」は得られないかもしれません。しかし、あなたには逃げる権利はありませんが逃げた際の補償についてはそれを受ける権利がありますと仮に言われたら、どれだけ救われたろうかと思ったりします。
そこはチェルノブイリ法と日本の“子ども被災者支援法”の大きく違うところだなと思います。
新居は築年数は40年と経ってはいますがリフォームされきれいです。庭がなく自転車の置場に困りはするのですが広さや間取りを僕は気に入っています。将来の娘の部屋もあります。片づけは大変ですが今までと違い岡山での暮らしの展望がこの家で見え出した気がしています。良い家にしたいなと、長く住みたいなと、今思っています。そのためにはやらないといけないことがたくさんあるはずです。それをこれから整理してひとつひとつつみあげるように実践できればと思っています。
次回に続く。
2018年12月09日
前回の「110」が去年の6月ですので一年以上ぶりのエントリーです。
理由は311についての自分の記録を可能な限りこのブログに集約することにしたためです。
一か所にすべてを集めておくことで個人的な日記であれ何かのお役に立つかもしれないと考えたことと、娘に311からの出来事を伝えるために整理して残しておきたいという二点です。
現在まだ整理の最中なのですが、新たなエントリーはこの整理が終わったらと思っていましたが、それを待っているとさらに整理しなくてはいけない記録が増えていくことになりますので、その手間を省くため最初から記録として整理した形でここに書いていくことにしました。
現在の住まいが立ち退きを迫られ、なかなかこちらの借主としての立場を理解してもらえないまま半年程度を過ごしたのですが、納得いかないままではありますがなんとか貸主側からはギリギリのところでの譲歩を得ましたので、目星をつけておりました物件について具体的に話を進め始めました。
我が家年内に転居します。
今の住まいはお試し住宅の期限が切れるのを前になんとか安くて我々の希望にかなうところはないかと散々探してたまたま出てきた物件で、地区何十年なのかわからないほどの長屋の真ん中の部屋は傾きかけていて日当たりも良くなく、また一部屋は畳の劣化が激しくとてもそのままでは使うことができないような状態で雨漏りもするようなものでしたが、とにかく希望の学区で安く住めればそれでいい、引っ越し費用もほとんどかけることなく済むのだからまた引越そうと思えばすぐにでも越せるという緊急避難的な家として考えておりました。
そうはいっても幼い娘にとっては思い入れのある家ですし、また今回のようなオーナー側からの要請ということであればまた意味は違ってくるので複雑な状況ではありますが、日常のなににつけ、なんでも捨てることが別れに繋がるようすの娘には、今までどおり同じ学校に行けるようにしたこと、引っ越す経緯や僕と妻の意向、それとあなたは将来どうすべきかということを話しました。小学校三年生の娘はうんうんと頷きながら聞いていました。
彼女なりに理解しているなと思いました。
青天の霹靂というわけは決してないのですが、三度自分ではない第三者によってそのタイミングを決められてしまう引っ越しが続くことになりましたが、ただひとつ結果的によかったのはもう少し先の娘の部屋の問題をこれで解決することができそうなことです。そして立地についても夫婦とも満足をしています。
まだ動き出したばかりの引っ越し作業です。忙しい年末になります。心を崩している暇はないのですがこれも穏やかに自分をだましながら時を過ごしたいと思います。
アフター311という世界は僕らの感受性をぞんざいに扱い、僕らは外皮を剥がしたまま塩の海を泳いでいるように苦しみもがいていますが、しかし負けるわけにはいきません。
この世界に是非勝って、娘を素晴らしい未来に送り出したいと思います。
また経過お伝えします。
次回に続く。
2017年06月21日
2017年 06月 21日
ブログはfacebookやtwitterに比べると記録として自分の書いたものを残そうと思うと都合がいいいので、これはあくまでも福島第一原子力発電所の過酷事故によって翻弄された一家族の記録としての記事として僕も書き、またこれを読む方にもそう読んでいただけることを前提にしてここに書き残す事が出来れば、何かのお役にたたないまでも事故の風化、原発避難という事実の風化を防ぐためのほんの少しのとっかかりにさえなればと、避難移住丸3年を過ぎた今また思い新たにしなければいけないなと、思いは強く、実際はなかなかはかどらず、しかし今こうやって書きだしたことについては、一生懸命自分を評価しないといけなとも思ったりします。
2017年6月21日。近況です。今一番頭悩ませていることは、「帰郷」です。8月に休みを取って両親を兵庫か岡山のコテージに連れて行ってBBQなどして過ごすのはどうかと、神奈川の相模原にいる弟から1か月弱前にメールが来ています。
76と75の両親はここでも何度かお話したかもしれませんが、2014年に岡山に来て以来6~7度、もしかしたらもう少し、岡山に孫に会いに来ています。こちらからなかなかいけないという事があり、来てくれるのは有難いのですが高齢です。何度も何度も来い来いとは言えず、さすがにもう毎回毎回来ればいいよとは簡単に言えなくなっています。
“そっちが都合つけてくれるなら、そのほうが話は早いよ”と、弟はこちらの返信に応えてきているのですが、そこからなかなか僕の方の返事が進みません。どうしたものかと考えるでもなく考えて、数週間経とうとしています。
行きたいところ、会いたい人、ない訳ではありませんがやはりどうしても気が引けます。
これをどう言い表せばよいか悩んでいるうちにどうでもいいような言葉を並べてしまいます。“気持ち悪い”と言うのはなかなか言い当てているかもしれません。原発事故後、岡山に来るまでの3年間、僕の目には東京の空気は黄ばんで見えていました。放射能は目に見えないと言われますがホントにそうなのか疑問と言えば疑問です。
それではあの時見えていた黄ばんだ空気はなんなのか。
たまに“放射脳”という言葉で僕を揶揄する方がいらっしゃいますが、ご本人は揶揄のおつもりでお書きになるのだろうけれど、受け手の僕は揶揄でもなんでもなく事実であるかもしれないとむしろ同意しているという事はなかなかお伝えできないことなのですが、果たして放射能とは何者なのだと、思い悩むしかない状況は、全く何も変わっていませんし変わらないかもしれません。
いずれにしても、きわめて主観的にとあえて断ってからいうのも悔しいのですが関東は我が家にとっては娘を連れて行くのには不安な場所になってしまいました。
思い出のほとんどは関東にしかないのですが。
しかし娘の思い出のほとんどは岡山にしかないのも事実です。
行ってきけなくもないのですが、行かないですむなら行かないで済ませたいと思いますが、あと数年はそうはいきません。
娘がいなければきっと東京にまだいたと思います。他に行くところがりませんので。
取りとめなくなりそうです。駄文は破棄が原則かもしれません。
遺書として、ずっと自分の遺体は絶体に人に見せないでほしい。眠ったような顔を見られるなんて御免です。そんなプライバシーの侵害はありませんと言っていますがもう一つ、最近遺骨は粉にして東京に撒いてほしいというのが加わりました。年初に書く遺書には来年からキチンと書くことにします。
やはりとりとめがなくなりました。
一応記録として留めます。
また書こうと思います。
次回に続く。
2017年03月28日
2017年 03月 28日
きのうの朝、うちから50メートル程度先にある最初の信号から、娘は初めて学校に一人で行きました。正確に言いますと行ったのは修了式を終えていますので学校内の学童です。
去年春に入学した時からほとんど僕が車で送っています。歩けば大人の足で15分位の距離です。集団登校でないので一緒に行くお友達が見つかるまではという名目で送っていましたが結局ほぼ一年、今月に入るまではそのまま送っていました。妻が時々送りますがその時は歩きます。
この1ヶ月くらいからなんとなく歩いて行こうと促しています。学校まで一緒に歩いて行くと僕が遅刻になるので、まず同じ方向の同じクラスのお友達を待ち伏せて行くことにしました。
一日目。なかなか来ないお友達を少し焦りながら待ちましたがやっと来たお友達に一緒に行ってもいい?と聞くとウン、と言ってくれたのでじゃあ行っておいで気をつけてねと送り出すと、娘も行ってきますと返事を返し、元気にいってくれました。
一日目、二日目くらいは良かったのですが三日目から娘が行くのを渋るようになりました。早足で歩くお友達を必死に追いかけるように行く娘を実は心配していたのですが、娘はそのお友達と行きたがらなくなりました。
相性もある様子だったので聞いてみたら図星でしたのであまり無理を言わないようにしました。とはいえ他に同じクラスのお友達もいないのでちょっと困ってしまいました。
もう一人、違うクラスの女の子がいるので今度は彼女を待つことにしました。彼女も来るのが遅いのでやはり待つことにしたのですが、するとすぐそばのマンションから同じ保育園だった一年生の男の子が出てきて娘の名前を呼んで通りすぎていきました。
あの男の子あなたの名前知ってるじゃんと娘に言うと、あっ、あたし行くと言って僕が持っていたお弁当と水筒を奪うように取り上げ追っかけて一緒に行きました。
同じクラスのお友達じゃなきゃ嫌だと言っていたのにやれやれです。
彼はあまり遅くもなく待つことがないので助かります。二日目は当たり前のように手を繋いでいそいそ歩いて行ってくれました。なんだ行けるのか。
保護者同士の会釈。
これから二人で行ってもらえるかなと思ったのもつかの間春休み。
娘は学童、その男の子はお休みです。
という訳で、春休みの間はまた一緒に行く人がいなくなりましたので、そこできのう初めて一人で行ってみようということになりました。
いつもの信号で送り出し僕は駐車場に戻って車で出ます。方向が途中までは同じなので様子が見られます。渋滞が助かります。通学路の半分は見られます。広い歩道で人も多く見通しの良い道路ばかりなのでそこが少し安心です。
しかしヒヤヒヤです。
信号待ちの僕にお父さん気をつけてねと言う娘はなかなか頼もしい。足取りもやっと最近同期生に近づいてきた。
大きな信号を娘は待ち僕は右折していきます。
なかなかスリルのあることです、僕には。
学校がもう見えていますのでそれが救いですが春休み、いつもなら子どもたちが集まってきて当番の保護者のお母さんもいたりしますが
そうではないので気をもみます。
どちらかと言うと僕の方がヒヤヒヤという感じでしたが、なんとか娘は一人で登校出来ました。
僕が心配しすぎなのかそれとも他の保護者の人たちが子どもをちゃんと信頼できているということなのか。
しかしニュースは戦慄です。
テレビのニュース解説者の、私は以前からスクールバスは必要だと言っていますという言葉がやたら虚しいです。
今朝はどうしようと思っていたら代わり番子にしようよと娘が言います。どういうこと?と聞くと歩いて車、歩いて車、と娘の助け船。
そうか、じゃそうしよう。
ということで今朝は久々車で送ってやりました。
明日はそうすると一人で歩きになりますが、僕は今まだ悩んでいます。
娘は少しまた大人になりました。
次回に続く。
2017年02月25日
2017年 02月 25日
娘が誕生日を迎え家でお祝いをしました。ここ数年は相模原にこの時期帰郷し座間のラ・リチェッタでお祝いをしていましたが今年は岡山の我が家で3人で妻の自家製ケーキで祝いました。
6年前の今頃は、やっと歩きだした娘が嬉しくてよく近くの多摩川の河原に遊びに連れて行っておりました。くつを脱がせ芝生のような土のような、ちょっとあいまいな場所をかまわず歩かせてやりました。人の親になることの不思議さと嬉しさに、倍以上のはっきりしない広さに広がった世界を頭の中で僕は駆けずり回っておりました。
娘は2月を1週間と待たないこの時期に生まれましたので、1歳になってから2週間であの地震に遭遇することになります。最後に多摩川の河原に行ったのは3月6日。日記に書いてあるのでわかります。日記は便利。その日記は3月10日の夜に将来の事を娘に託したあと暫く休みました。結果的にですが。ブログを読み返すと地震の日から数日はその日も含めなにも書いていません。書いても状況については書いていない。どういういう心境だったのか、当時の自分に確かめてみたいところです。
東日本大震災から6年。娘との時間はほぼ原発事故との闘いの時間です。悔しいがどこかで自分を責めている。怖いはずの原発を忘れることに暫くの間時間を費やした自分をたぶんどこかで僕は自分を責めています。もちろん、責めていてばかりではいけないことはわかっており、毎日今は前を向いて実践的に動いています。目の前に娘がいますので。
記録について考えます。このおそらく稀有な体験をしている311以降の我々には記録を残すことがかなり大事な役目ではないかなというふうにです。岡山に来るまでは震災以降頻繁にこのブログを更新し、カテゴリーを立て書いていましたが移住後はその数が減っています。Facebookがブログの役割をし始めたこともありますがTwitterも含めて自分の思いの整理が断片的にはなっています。自分の気持ちの整理がSNSというハードの都合次第に、このところなっている節があります。記録を残しておいた方がいいのではないかという考えからすると果たしてこのままでいいだろうかと気にもなり今少し記録の仕方について試行錯誤を始めたところです。
記録について考えていることに加え今少し頭にあることがあるので近況としてもう少し書きます。
去年の10月から月に一度旭川の支流で特に移住者に声かけをしてバーベキューを始めました。暫く休んでいたキャンプ道具が久々日の目をみています。これがなかなか好評でやって良かったと思っています。移住者の心情は複雑です。その心をいくらか休める場をつくることは大事で、そういう事なら出来るかなとここ暫くは思っています。
もうひとつの移住者の場として虚ね秋に岡山県議になられた大塚愛さんを囲んだ議会報告兼ねた交流会があります。移住者の思いを何らかの具体的なものにする作業に窮していました。岡山に原発避難者である議員が登場したことは極めて大きな意味があると僕は信じています。ですのでもはやこれはライフワークのつもりで取り組んでいます。移住者の思いは複雑です。
個々のそれぞれの心情については丁寧にひとつひとつ了解しなければいけない気がしています。記録する事とこれは繋がりますがどのように移住者の思考や意思を見えるかたちにするかの作業について考えていきたいです。
ひとつふたつ、その方法として取り組みたい事が具体的にありますが今日は詳細は留めますが、“あいまいな喪失”という言葉に先日出会い、希望を新たにまた見つけたところではあります。考えれば水車の発電とかも、具体的な勉強のテーマとしてありました。メモ書き用ノートが最近役にたっています。
年のせいは往々にしてあると思いますが、最近人生を時間という線ではなく点だという風に考えるように少しなっています。歳を重ねてからの人生の方が面白いという先を行く人の言うことが近頃なんとなく分かります。
また以前のようにブログを気にしたいと思います。
次回に続けます。