2019年05月

2019年05月27日

金曜日の職場の体育会から始まって、きのうの娘の運動会とそのあとの移住者地元の人相まってのお疲れ様の会と、忙しく楽しい数日間が終わりました。
 今僕は複雑な心境にいます。もし東京にいたままだったら、果たしてこんなに気持ちを吐き出せて、わりと言いたいことも時には言える場があったろうか、そしてあんなに人との繋がりを意識して仕事をしていただろうかという風にです。
 僕はここに馴染めず、そしてはなから馴染むとか仕事頑張ろうだとかそういう毎日の機微はどうでもいいというようにして、ひたすら絶望と後悔と惜別と時間に対する憎しみと無力感をただ味わいながら生きていくことを全然やぶさかでないと心に決めてあるのに、相変わらず受け入れがたい慣習にはくたびれながらも僕は知り合いの議員さんに偶然町で会って言葉を交わしてみたり、かかりつけのお医者さんのところへ行けば診察より車の話が長くなりそうになってみたり、また新しい人との繋がりが出来てみたり意外な人と人の繋がりを発見したりしています。

僕は疲れているはずではあるんです。
そして神奈川では毎日でも孫に会いたいお袋が弱りかけています。

心強さと無念が同居します。なかなかうまくいかないもんです。忘れていけないことがたくさんあります。恐らくじきに僕はまた内側に帰っていきます。確実な拠り所が今はまだそこだけだからです。

結論を出すのには疲れました。
 選択肢を増やして娘の未来を地球の数倍の大きさにするのが僕の唯一の使命です。

出涸らしみたいな僕は生き物の一個体として自己完結というマスターベーションを人に迷惑ならないようにしていればそれでよく、いつか風景に抹殺されることを切望するのみなのですが、そうは言ってもなんでこれほどまでに娘の生きる世界を憂いていなければならないんだろうとは思います。




2019年05月18日

 まず最初にお断りしておかないといけないことがあります。それはこれからお話しすることで決して誰も自分の人生を縛られることはないということです。それはもちろん、もしかしたら私かもしれないあなたもです。だからくれぐれも、よろしくお願いしますね。


 アルバムとか懐かしい動画の入ったディスクとか、ずっと仕舞い込んでいたものを久々に引っ張り出すと、ついつい長々と見入ってしまいます。おかげでなかなか部屋の片付けが進みません。というのも、私たち完全に日本を離れることになりましてその準備をしているところだったんです。一緒に暮らせることになった母を迎えに、私は久しぶりに日本に帰ってきました。

 亡くなった父には申し訳ないのですが、ただ生前父は口癖のようにいつでもどこへでも行くのはあなたの自由なんだからねと言っており、またそれが私の何事にもあまりとらわれない自由な性格を育てたんだと思っていますので、きっとこのことも許してくれるだろうなとは思っています。

 遺灰は遺言と言いますか常々本人が言っていた通り、生まれ育った東京のあちこちに少しずつ撒いたのですが、一部は母と私が持っておりまして、それを持参するので父も一緒に行くと言えば一緒に行くということにはなるかもしれません。

 もちろんこのアルバムもハードディスクも一緒に持っていきます。一応整理はされているのですが、年代の順序が逆だったり画像と動画が混ざったりしていて、その辺は父らしくてちょっと懐かしい気はします。

 ハードディスクには携帯で撮った私の写真は全部残してあるんじゃないかと思うくらいの枚数の写真や動画が入っていて、中には私が生まれる直前のお腹の大きい母や生まれた日の病室の動画もあったりして、父はそれをたまに私に見せたりしていたのですが、私は自分が生まれる前のそういう写真や動画をどうやって見ていいのかがちょっとよく分からなくて、だからそういうのを見るのって実はあまり得意じゃありませんでした。

 アルバムには神奈川の神社で撮って頂いたものもあって、確かこの三歳の七五三の時の写真くらいまでが東京にいた頃のもので、それからあとがたぶん岡山なんだと思います。四歳の時に岡山に来た私に東京の記憶はほとんどないので、生まれも育ちも私は岡山のつもりでいるのですが、父はよく私にあなたは東京で生まれたんだからねと言ったり、なにかあればすぐ東京を引合いに出して、岡山の人はああだとかこうだとか岡山のことをあまりよく言わなくて、そうは言われても私は他と比較もしようがありませんし、あまりいろいろ言われるとかえってそれが嫌だなと感じて、気持ちのどこかで私も東京生まれというのはあったのですが、そういうところは正直ちょっと好きじゃありませんでした。

 ただ今思えば、なんの縁もゆかりもなかった岡山に私を必死の覚悟で連れてきて、母もそうですけど、言うに言われぬ苦労をして私を育てた父からすると、岡山に来てからも東京を名残惜しむ思いがなかなか消えなかったのは仕方ないことかもしれないし、またそれをせめて私くらいは分かってあげないといけないかもしれないなと思ったりはします。

 父も母も四十歳をとうに過ぎてからの子どもだった私は、他の子よりは少し早めに親と過ごせる時間について思いを巡らせたということはあったかもしれません。とはいっても幼い私にそれを自分で解決することはさすがにできませんでしたので、それを素朴な疑問として何度も何度も父や母にぶつけたことがありました。

 たぶん六歳かそのくらいの頃から、時々ちょっと私怖くなる夜があって、ベッドに入って本を読みながら何度かシクシク泣いたことがあるのですが、ある時こんなことを聞いたことがありました。


「お父さん、人間は歳を取ると死んじゃうの?」

「え、なになにどうした?」

 父はそう聞き返してきました。

「お父さんもお母さんもいなくなっちゃうの?あたし独りになるの?独りなんてイヤだよ、あたしまだ六歳だよ、もお、やだよお」

 私たしか泣きました。

 父は、

「大丈夫、なに言ってんの」

 と少し語気を強めて応えました。

「大丈夫、独りになんかならないよ。ちょっとお話聞いて」

 そう今度はやさしく父は言い、私はそのあとの言葉を待ちました。

「いいかい、よく聞いて。順番なんだなあ。つなげるって分かる?すっごく歳を取ったおじいさんとかおばあさんはね、いろんな楽しいこととか嬉しいこととかいろんな良かったことを経験したの。経験て分かる?うん、いろんなことしたの。いっぱいいろんなことするとね、今度は自分はもういいから自分の子どもとか孫におんなじようにして欲しいと思うんだな、これが。だから、交代して、今度は若い人にやって欲しいって思うわけ。だから自分は天国行っちゃって交代するんだな。でも独りになる訳じゃないよ。もしかして、国語の教科書に出てきたお話で犬が死んじゃったから、だからそう思ったの?そうかそうか、でも大丈夫じゃん、ずっとずっと大好きだよって言ってたでしょ。ずっと大好きでいられるんだよ、大丈夫、ずっとずっとだから」

 父の言う通り、私は国語の教科書の話を思い出していました。

「だからね、いなくなってもここにみんな来るんだよ、ここにいるのずっと。ね、だから大丈夫でしょ。姿は見えないけど独りじゃないじゃん。だから大丈夫大丈夫」

 そう言いながら父は軽く私の心臓のあたりをコンコンと叩きました。

 私はうんと頷きました。

「独りになんかならないから。一緒よ、一緒。六歳でしょ。独りになるわけないじゃん。お父さんもお母さんもいなくならないから心配しなくていいよ。大丈夫大丈夫」

 いなくならない。

「お父さんはね、あなたが直ぐなんでも言ってくれるから安心なんだ。大丈夫。心配なこと、悲しいこと、イヤなこと、恐いこと、辛いこと、なんでもあったら言っていいんだよ、全部お話してあげる。全部大丈夫だから。なーんにも心配しなくていいって知らないでしょ、心配しなくていいの、全部大丈夫だから。なんでもお話してあげる」

「大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。ぜーんぶ大丈夫なようになってるの。だからなんでもお話すればいい。いいかい」

 涙を拭って私はまた頷きました。

 こっちおいでと言う父の布団に、私は宇宙にでも飛び出すような勢いで潜り込みます。

「本読もうよ、本を」

 父はいつもの迷路の本を取り、いつものように上下逆さに持って文字を逆に読みだすので、私も言い返します。

「逆だよ!」

 そうやって遊んで本を読み終え私が眠くなると、父はもう寝ようかと言ったあとに

「だからね、だから大丈夫」

 とまた言いました。

 うん分かったと私も頷いて、そして直ぐに眠ってしまいました。


 人は誰でも心の旅をするのかもしれません。

 波を打つように時々怖くなる夜は私にもやってきて、そしてそんなことを何度か聞いたのだと思います。

 私はあの時の父の大丈夫という言葉にずっと救われてきたのですが、そういう父は大丈夫だったのかしらと、なんだか今頃になって急に心配になったりします。

 父はずっとどんなことを考えていたのか、母はなにかそういうこと、知ってるのかしら。


「いいかい。」

 父は口癖に近い感じでよくこの言葉を話の最初にもってきました。おそらくこの日もそうです。

「いいかい、もしお父さんとお母さんがもっと早く子どもを持ったとしたら、その子どもってあなたじゃないのよ。言ってる意味分かる?」

 なにそれ今でも分かりづらい。

「えー、分かんない」

「うん、じゃ教えてあげる、いいかい?」

 私うんと頷く。

「うん。いいかい、子どもっていうのはね、卵とそれを目指してやってくるちっさいオタマジャクシみたいなのがくっついて出来るわけ。これ、花だったら花粉だわな。おしべとめしべって聞いたことない?」

「よく分かんない」

「あ、そう。ならいいや。とにかくふたつがくっつかないと出来ないの。まずこれいいかい?」

 確認しながらしゃべる父。

「そうすると、卵っていうのはお母さんなわけ。で、ちっさいやつがお父さん。お母さんは卵を持っててお父さんはちっさいやつを持ってるわけ」

「どこに?」「お腹の下くらいかな」

「うん。それがね、その卵とちっさいやつがいっしょになって初めて子どもが生まれるんだけどさ、お父さんが持ってるちっさいやつがね、たくさんいるわけ、何億個もいるわけよ」

「えー」っと私、驚いた。

「そうなのよ、すごいのよ。それがさぁ、卵に会うのには一回のチャンスしかなくて、その一回の競争の時に相手が何億匹もいるわけさ。でなおかつ毎回卵と出会えるのは一匹いるかいないかなの。どうよ、これ」

「すごいね」

「そうなのよ。すごいのよ。まあだから競争みたいなもんだわな。そういう競争に勝ったのが子どもになるわけよ。どういう意味だか分かる?」

「分かんない」

「あなた、すごい競争に勝ったから生まれてこれたのよ。分かる?あなた走るのも勉強もいつも頑張ってるけどなかなかみんなにかなわないけどさあ、もう生まれた時に何億人、いや人じゃないね、だけどまぁいいや、何億人に勝ってるわけよ。勝ったから生まれたわけ。すごいことなわけ。偶然て分かる?うん、だからね、生まれるってすごいことなの。ここまでいい?」

「うん、なんとなく」

 私の分かったような分かんないような返事。父は時々私に熱弁をふるうんですけど、いつも半分くらいしか分かんなかった。

「でね、あなたはお父さんが四十三歳の時の競争に勝って生まれたわけ。だからもしお父さんがもっと若い二十何歳とか三十何歳とかの時の競争に勝った人っていうかオタマジャクシっていうかそういうのがいたとしたら、それ、あなたじゃないの。それ分かる?」

 うーん、なかなか難しい。

「お父さんが四十三歳の時の競争に勝ったからあなたが生まれたの。ほかはないの。今度はこれは必然だ。難しいね」

「えー、どういうこと、分かんない」

「お父さんが四十三歳だったからあなた生まれたの。ほかはないの」

 宿命っていう言葉をなんとなくでも理解したのはいつだろう。

「だからね、たしかにお父さんももっとはやくあなたに会いたかったなっていう気はするんだけどね、でももっとはやくお父さんが子どもをもったら、それ、あなたじゃないの。うん。あなたとはさ、このタイミングでないと会えなかったわけ。うん」

 思い出したのは、ドキュメンタリー番組を見てすぐ泣くあまり好きでない父のことでした。

「だからね、その分長く頑張ればいいじゃんて思ったわけ。だってさ、若いお父さんだって早く死んじゃう人はいるかもしれないし、わかんないじゃん。それじゃおんなじでしょ。お父さん、こう見えて若く見られるしさあ、頑張れば結構いけると思おうわけよ」


 焦る父を、今の私には少し理解できる気がします。

 早く会いたかったのは父も同じで、我が子の人生を最期まで見届けられないというどうにもならない当たり前のことに苦しんでいたのは、むしろ父の方だったかもしれません。父の苦悩の甲斐もなく、私は誰でもがそうであるようにいろんなことに気づいてきましたが、父が心配したほど私は弱くはなかったし、わりと前向きに生きることが出来ています。だから、安心して大丈夫なのよと伝えることが出来ればこれほど楽なことはないのですが、切ないと言えば、それが叶わないことが少しだけ切ないです。そしてそれは自分が見ることがない未来を、私がどう生きるのかと想像した時の父の切なさに似ている気もします。


 アルバムとたくさんの荷物を広げた居間に陽が斜めに射してきました。いつの間にかの夕日です。オレンジ色の光が眩しくて、父の写真が少し見えにくくなりました。

 生まれてから何回目の夕日なのかなと思います。

 私がまだいなかった日も父がいない今日も、同じ太陽が沈んでいくのが不思議です。

 母はまだ炬燵で休んでいます。そろそろ起こなさいといけません。今は私が見守る役目になりました。


 私と生きた父と母の人生のほとんどの時間は、原子力発電所の事故から私を守るためだけのものでした。あの事故で我が子を最期まで見届けたいという思いは手の届かない遠くへとさらに追いやられて、しかしそれでもひたすら毎日途方に暮れる日常をこなしながら、いずれ一人になる私のためにひとつでも多くのものを残そうとしていたのだと思います。

 そんな父や母が、それをひとつひとつ丁寧に拾いながら生きていく私の姿を想像することはさして難しいことではなかった筈ですし、それが父の時間を取り戻すための方法でもあったのなら、私は今どれだけ安堵するかわかりません。


 原発の廃炉作業はまだ終わらなくて、以前避難指示が出ていた周辺に結局人は帰らず、死んでしまったような町が残っただけですが、それは今の私たちにはあえて触れることもないごく当たり前の風景です。白血病と甲状腺機能低下症は今や生活習慣病の代表であり、子どものガンは珍しくなく、医者が明るくその予防法を説いています。

 非常識が常識になるのは意外と簡単でその変化は分かりづらく、人の権利は危うくて思うほど自分たちは自由でないことを父や母から知った私の人生は、ほとんどそのまま父と母への応えになるのかもしれません。


 おかげさまで母の体調はとてもよく、父がいないのを寂しがってはいますが出発を楽しみにしています。母の負担を考えればもっと暖かくなってからの出発でも良かったのですが、私は3月11日に拘りたくて、母には無理を言ったのですが当然のように母は快諾してくれました。

 起きた母が、どうした大丈夫と聞いてくるので、大丈夫よ、荷物整理はもう少しで終わるからねと声をかけました。

 寒くない?お腹はどう?今日の夜はなにを食べようかと、もう少ししたら母に聞いてみようと思います。昔母が私にしてくれたようにです。


 部屋の奥から私を呼ぶ声がします。さて誰だと思いますか?

 それはいつかの私かもしれない誰かへの宿題にしておきますね。



(終わり)



kaigo_taxi at 16:44コメント(0)
作品 | 2019年

2019年05月06日

偏見の固まりの僕はやはり岡山のような田舎は向いていないので、いずれは東京か神奈川に帰ろうと考えます。被曝リスクが未知数で民主的には愚の骨頂になってしまった東京へなぜ戻るのかと言えば、あそこには僕のほとんどの風景があり、そして廃墟と化していく東京の姿を自分の命が朽ちるのと重ね合わせて見てみたいという思いがあるからです。原発事故がなければ僕はこんなに岡山を嫌いにならずに済んだのに。岡山の皆さんごめんなさい。とりあえず、娘が自立するまでは岡山にいさせて頂いて、あとは去ります。それまでは静かになるべく皆さんにご迷惑お掛けしないように静かに過ごします。#流民



2019年05月02日


二泊三日のキャンプでいいのは丸一日なにもしない日が一日つくれること。以前はよくやっていたのですが二泊は久しぶりでした。
#帰ってきたら天皇陛下がお代わりになっていた



無題





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2014 東京→岡山→ 原発事故という我々の無責任について。 我が家のギリギリ疎開計画 https://t.co/h63Rn0E2fX
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