2019年01月
2019年01月30日
2019年1月30日
娘は大分落ち着きましたが僕は今朝久しぶりの37度台に下がったものの、再び38度台後半に逆戻り。発症が日曜日なのでまあ想定の範疇ではありますがあまり休んでるわけにもいきません。訃報や体調不良のニュースをみるとほんとに気味の悪い世の中になったなと怖くなります。我々は既にサバイバルゲームの最中にいるのかも知れず、僕はバトル・ロワイアルは観ていませんがまるでバトル・ロワイアルを地でいくようでもあります。あらためて、岡山に逃げてきて良かったと思いますが、岡山でも気を付けなければいけないことはありますので引続きサバイバルを生きていこうと思います。夕方ですのでここは一眠りして乗り越えようと思います。#原発避難 #岡山
2019年01月21日
会社の社長が東京へ出張に行くという。二泊三日でアフターファイブをどう過ごそうかと食堂で皆にいろいろ聞いている。
岡山に来てから気になっていることのひとつに、日常会話として東京に行く話がよく出てくるということがあって、話す人は決して珍しくない事のように話をし、聞く人もいつものことのように聞き慣れた話題として聞くのだけど、どこかに隠れている特別感のようなものを完璧に閉じ込めることに大概は失敗していて、結局周囲にそれをなんとなくではあるけれど漂わせてしまっている。
誰にとっても東京が以前と変わらないままの特別な場所でよいのなら、安直な僕の自尊心も傷付かずに済んで少しは楽だったのかもしれないけれど、東京にはもう住めないと思って岡山に来た僕にはそんな価値はもう東京にはないので、本当は同じ特別感のままで話をして欲しくはないのだけど、そんな僕の都合が通用する様子はほとんどなさそうで、結局どっちにしても疎外感は形を変えながらずっとなくならないでどうもいるらしい。
東京へ行くという日常会話に僕が混ぜてもらえないのは、東京から来た僕の事情を気遣ってもらっているからか、それともその理由がなんだか胡散臭いからか、あるいは東京の話など、わざわざ東京の人間に聞くまでもないということなのか、なんでなのかさっぱりわからないんだけど、でももし僕がその話に完全に入ってしまったら、今岡山にいる理由がなくなりかねないし、今の暮らしと、岡山に来るまでの、吸う空気も蛇口から出てくる水もスーパーに並ぶ食べ物も何から何まで不安で毎日毎日一分一秒必死に闘っていた東京の生活のことと、全部捨て、何もかも決まらないまま逃げるように岡山にやって来たそういう苦悩や覚悟や葛藤を消してしまいそうだし、それどころか、その意味さえ否定してしまって、知って欲しいことも知ってもらえないまま終わってしまいそうなので、そっとしておいてくれた方が助かると言えば助かるのだけど、しかしそうかといって日常を無視するわけにもいかないから、それはそれで悩ましかったりする。
なんとなく窓外を眺めると、葉がすっかり落ちた桜の木が窓のわりと近かくに立っていて、その伸びた枝が景色の大半を塞いでしまってはいるけれど、隣のブライダルホールの突き出た屋根にざっくり刻まれた空はちゃんと真っ青に晴れていて、それが頼みの綱になって懐かしくて遠いけれどしかし全然危うくない、確実な場所にかろうじて僕の記憶は繋がってゆこうとする。
あまりよくないなとは思いながら、僕は居心地の悪さを試しに311より前から感じる閉所恐怖症のせいにしてみた。それを僕の居る方とは全然違う方向に向かってひたすら遠くへ響いていく社長の声が少し後押しをする。
僕は食堂ではいつもだいたい黙っていて、それはこの職場に移動して一年半経ってもいまだにそういう風に、この職場の人達との距離の保ち方がよく分からないからで、どう相槌を打って良いかとか、どう口を挟んで良いかというように、会話のテンポがいまだに掴めずに、自分の居心地のいい場所をずっと見つけることができないでいるからで、なので黙っているというよりは、打てる相槌はあるはずなのにそのタイミングをいつも逸していると言うのが正しいかもしれない。
ただそういう、職場でのコミュニケーションが思うように取れないといった、本当だったら仕事の悩みと人から言われそうなことが、原発事故を理由に岡山に来た僕にはほとんど大した問題ににはならなくなっていて、僕のわりとウケる会話を披露する機会がほとんどないのは少し残念なのだけど、といってそれをなんとかしようという焦りもなく、会社の人たちとの関係はさしずめ電車にたまたま乗り合わせた客同士くらいがちょうど良いという気さえしている。
陽当たりは決してよくないのに南向きの窓が全面ガラスのせいかこの食堂は比較的明るくて、あまり関心のないこの部屋の温度もわずかに上がっているような気がしなくもない。コの字に並べられたテーブルで僕を入れて八人が同じお盆にのった違うメニューの昼ご飯を食べていて、その角で食べ終えた食器が乗ったままのお盆を持ちながら二王立ちする社長は、低くて通る声で意見を求めるでもなく、かといって無視するのもお互い困るくらいの、上でもなく横でもない微妙な角度で東京の話を続ける。
昼間は良いんですよ、問題は夜なんです。
社長の低く通る声が、僕には岡山を代表しているようにいつも聞こえて仕方ない。東京では聞いたことがないようなひたすら広がり決して急がない声。あの事故がなければ絶対いる筈がなかった食堂で、聞くこともなかった筈のその声を、僕はいつも昼飯を食べながら身構えるでもなくといって聞き流すわけでもない程度に、耳に入ってくるのをただ淡々と許しているだけなのだけど、ただ今日は、社長が僕にとっては懐かしい場所をあちこちと口にするので、その声が食堂の眩しいガラス窓に当たったあとに僕の方に跳ね返ってきて、僕の耳に遠慮なく入り込んで来ようとする。
あの事故のおかげで大事にしまっておく価値もなくなって、また思い出せば無頓着と自分で自分を責めてしまう東京の風景が、今日はなんだか数少ない味方のように愛おしく、きのうなら跳ね返したかもしれなかったその声を、たぶん今日は自分から拾いにいこうとしている。
最後は東大の大学院まで行った後輩がおるけど、何十年も会っとらんし。
会場は何処なん、と古株の妹尾さんが社長に聞いた。
東京国際フォーラム。そそ、有楽町の。
僕は四年前の国際フォーラムの風景を思い出す。交通会館であった岡山の移住相談会に行った時、外をうろつくのが怖かったから妻と娘を連れていった。全面ガラスだらけの、明るくて眩しい広々とした国際フォーラムの空間は、被曝を恐れる僕と妻には都合が良かった。
あの辺りで食事するとことか、どこかいい所知らんの。
社長は構わず話を続ける。
食堂に響く東京の地名に僕は、しなくてもいい動揺をして、したくもない葛藤をする。
僕が昔東京のテレビ局で裏方の仕事をしていた時に、連ドラのロケで国際フォーラムはよく行っていたなんて絶体社長は思いつきもしないと思うけど、それと同じくらい、福島原発の事故のせいで東京にいた僕が東京で被曝を怖がって、その国際フォーラムに逃げたことがあるなんて全く想像できないんだろうなと、この食堂に漂う空気をまた僕は身体中で観察してみるんだけど、いつもはコソコソ社長の愚痴をこぼしている人たちもさすがにそこは同調しそうだったりするので僕の孤独に拍車はかかるけど、僕も僕で、そうやって観察することが黙っているのに都合が良かったり、観察の結果やっぱりいつものように黙っていた方がよさそうだっていう風になるので、それにかこつけて僕はまた今日もどんな人なんだろうと不思議がられているのを実は面白がっていたりしている。
食堂の南側全面の窓ガラスに描かれた岡山の風景は平穏で、空は動かしがたいほどに青く途方に暮れるほどに澄んでいる。
あまりの透明感とあまりの純度に僕は無力で語る気にもならなくなりそうだけれど、沈黙を続ければ、それはあの原発事故の当事者である筈の僕らがどこにも存在しなくなってしまうということなので、そんなことは我慢できないので、なので僕は、合理的な透明感に感謝し理解しようと努めながらも、山ほどある言いたいことや言わなきゃいけないことを言うチャンスを、どんな時でもうかがわないわけにはいかないのだ。
一年七ヶ月前の職場異動の面接の時、社長は僕が東京から来たことは既に知っていて、そしてその時震災がきっかけでと言ったのは僕ではなく社長の方だった。
はい、事故とかもありましたので、
と社長の言葉にそれをつけ足したのが僕の最初の言葉だった。僕は社長の返事を待たずそのまま続けるように
まだあの、子どもが小さいというのものありましたので、
と様子を見るようにつけ加えた。
社長は頷いたのか頷かなかったのか分からなかったのだけど僕の答えに被せる感じで
どうですか岡山は。岡山に来てどれくらい?
と聞いてきた。
そろそろ二年になります。前任が一年九ヶ月でしたので、その二ヶ月前に岡山に来てますので、二年を少し切るくらいです。
ああそうか、そうだね。じゃあもうだいぶ慣れたでしょ。
はい。そうですね、もう困るようなことはほとんどないような気がしますし、お店にしてもなんにしてもたくさんありますので、もうほとんど、はい、なんとか生活させてもらってます。ほんと、ありがたいです。
と本当はちっとも慣れないことばかりなのに、岡山への感謝を素直に付け足してそう返事をした。
原発事故をきっかけに関東から岡山に来た人はいっぱいいて、いろんな苦労を抱え暮らしているということをひとりでもたくさんの人に知ってほしいという目論見からすると、社長との最初の会話は完全に空振りだったと言われれば、まあそうかもしれない。
でもまたそのうちチャンスはあると、僕は僕にたかをくくったふりをする。
まあ言い訳すれば、恐ろしくなるくらいに変わらなかった日常との折り合いをそうやってつけているということだと思うけど、それはそれで日常とはそんなものかと自分の日常との不釣り合いに戸惑ったりしているからそこは勘弁して欲しい。
僕には東京は腐ったようになってしまって、空気は黄ばみ青空は嘘っぽく見えて、風は嫌味なくらいに陰湿に弱みにつけ込んでくるようになった。
肩にのし掛かる表向きの日常が重く心臓にまで圧迫感を与えて苦しかった。
その中で生きた間の絶望感くらいは伝えないといけないし、すぐ伝わるものだと思っていたし、岡山に来てからも苦しむお母さんたちがたくさんいるから、それはなんとかたくさんいろんな人に僕の話を聞いてもらう必要があると思うのだけど、なぜだかどこかにいつも壁がある。
注いだ熱いコーヒーをなんとか早く飲んでほしいのになかなか飲んでもらえないみたいに、だから僕はずっとイライラしている。冷めやしないかと。
岡山の社長の団体さんが行って暇を持て余さないようなところを、あちこち懐かしむ感じで考えてみたけれど、違和感ない場所が結局見つからなかったので、結局僕はなにも言わないでおいた。それに、ここがいいあそこがいいとあれやこれや東京のあちこちを言うのもどうかなと、僕の日常もまだ相変わらずだったりする。
社長はあきらめたように、なんとなく悩んだ感じで食器の返却カウンターに向って振り返り、食器とお盆をゆっくり片付け食堂を出て行った。
東京いうてもなあと、社長が食堂からいなくなると必ず最初に何か呟く妹尾さんが誰に言うでもなく、しかしまわりにはちゃんと聞こえる声で少しだけ天井の方を見上げながら呟いた。
知らんもんなあ。
自分で探せて。
チェッ。
僕が東京から来たということを知っている若い大森さんが舌打ちする。この前東京ドームに行ってきたばかりの大森さんの東京に対する特別感は今も変わっていないとしか思えないし、僕と同じ疎外感を持っている筈はないんだけど、僕は大森さんの舌打ちに便乗して少しホッとした気分を味わうことにしてみた。
隣で食べている中嶋さんは、僕が岡山に来た経緯についてほとんど包み隠さず話をしたことのある、仕事の同僚では数少ないうちの一人で、他の人と同じようにやはり立ち話がきっかけだった。
「なかじまさん」と濁らず、イントネーションもちゃんと「か」に力をこめて、
「なかしまさん」と読む。
原発の事故が怖くて逃げてきました。
僕らのことを理解してくれる人が増えるかどうかは、この一言が言えるかどうかにかかっていて、僕は誰かと話をするチャンスがあるといつでもすぐこの言葉が出せるように準備をするのだけど、いつもそれを言えるかというと、やはりそうはなかなかいかない。
中嶋さんとはあまり話をしたことがないうちに直ぐそういう話が出来た。
中嶋さんは、僕の言うことひとつひとつに合点が行くように頷き、質問し、一緒に考えてくれた。なぜ岡山に来たのか、なぜ岡山なのか、311のあと僕ら家族がどんな生活をしてきたか、今どんな生活をしているか、今どんな気持ちでいるかを包み隠さず言い忘れがないか確かめるように僕は話をした。
社長が食堂を出ていって、妹尾さんが食堂をいつもの空気に戻したあと、その中嶋さんが少し間をおいていかにも中嶋さんらしくいつもの調子で唐突に、
山田さん、山田さんはもう東京には帰らんの?
と、僕に訊ねてくる。
思いのままを話せば相手は全てを理解してくれるというのは誰でもいつでもしかねない錯覚だということに震災のあと僕は気付いたんだけど、僕は中嶋さんに向かって
え、そんな簡単に帰れるなら来てませんよ岡山に。
と目で嘆いてみながら、中嶋さんは社長の話につられて僕が東京に帰るのかどうか気になったのか、それとも逆に東京に帰らない覚悟がどのくらいなのかを知りたくなったのか、どっちなんだろうと一瞬悩んだあとに、
いやあ、予定はないですねぇ。今のところ。
と被曝が怖いから帰れないという意味と、あくまで常識的に手間のかかることだから、というふたつのニュアンスを混ぜこぜにして、中嶋さんだけに聞こえるように答えた。
東京から230キロの所で起きたレベル7の事故は僕には確実に何かの終わりだったので、そういう状況で自分のまだ小さな子どもを守ることなんて当たり前で、当然僕の行動の全ては誰にでもすぐ理解してもらえるとなんの疑いもなく思っていたのに、それがそうでもなさそうな現実をあの事故から六年以上ずっとこれでもかと見せつけられてきたから、あんなにいろいろ話をした中嶋さんが好奇心で今聞いているとしても僕はそれを理解するし、中嶋さんにも落胆しないし、まして避難者でもなく震災との物理的な距離もあったはずの中嶋さんが僕の話を聞きたいと思って聞いてくれたそのことに、相変わらず僕は感謝しないわけにはいかないのは全く変わりがない。
そしてなにより、信じられない筈の常識に馴染もうとしていることに気づかせてもらったのは他でもない中嶋さんだ。
ましてや中嶋さんが、例えば我が家が娘を連れて神奈川の実家に帰るとなると、まずマスクは必ず必要で、服はすぐ帰ったら洗うとか、実家の食事は食べないとか、一食はベクレルフリーのレストランにするとか、娘の朝のヨーグルトとルイボスティは持っていくとか、お米も五号くらいならビニル袋に入れていこうと考えたりだとか、そういうことをしてるなんてことが全然想像できないのは当たり前で、そんなこと許すに決まってるんだけど、そこまですることを仕方ないよねと許してくれるのかくれないのかがはっきりしないこの食堂の気配の方は、僕はどこからでも感じ取ることができてしまって、なのにそれを僕の方がむしろ気を使ってそうだよな、やりすぎじゃないかなと疑心暗鬼になったり、あるいは東京への荷支度にこれだけ神経を使う妻のことを頼りにしつつもちょっとやり過ぎじゃないかとその度に思ってみたり、そういう風に自分で自分を確かめるようなことを毎日毎時間のようにしてしまうんだけど、我が子を守るというのは至極まっとうで当たり前で、ただ悩ましいのは、そういう強めの僕の信念と全く価値がなくなってしまった常識との間の葛藤なのだけど、ところがそれを優柔不断だと誰かに責められたりしまいかと今度はそっちが気になったりする。
もうこうなると僕の手には負えない。
津山生まれの中嶋さんにはコンビニの袋のことはビニル袋って言うよりナイロン袋って言った方がピンと来るんだったと思い出した。
岡山に来て初めてナイロン袋っていう言い方を聞いた。ナイロン袋って言われて何だろうとはじめのうち結構考えた。
カッターシャツもえらく悩んだ。ママカリなんていまだにどうも自信ない。
え、じゃあずっと岡山におるん?
まあ子どもがね、学校行ってる間はね、いた方がいいかなっていう。
そう言った後に僕は口には出さず頭の中で
中嶋さん、そんなに簡単じゃないですよ、
と今度はそう付け加えた。
放射能汚染は時間が経てば解決するというものじゃないというのは僕の見立てでしかないのか、あるいは本当にそういうもんなのかがもう分からなくなちゃってるんだけど、ただあの事故から僕には東京の空がずっと黄ばんで見えていて、それはなかなかなくならず、東京に帰らないのかという質問は言ってみれば、ウンコをよそったお椀だけど一生懸命洗剤を使って洗ったし、消毒までしたんだし、なにしろもうずいぶん経ってるし、どうなのよ、帰ろうと思えば帰れるんじゃないのと聞かれているようなもので、そうすると、なんだそんなことかと僕を神経質な人間と決めつけちゃう人は笑い、一方で“僕と同じ側のはずの人”にはそんな情緒的な事じゃないでしょ、事実汚染されてるでしょうと言われそうなのだけど、どっちにしてもあの原発事故をどうして僕は正々堂々と怖がることができないんだろうと、ただただひたすらその疑問に悩み苦しみ続けてる。
そういうことも伝わらないのかなと思う。
どれだけ話をしても絶対通じないことはやはりあるのかなと考える。
中嶋さんにはそうは見えないのだろうか。
中嶋さんがこの前東京の友達に会ってきたと言っていたのを思い出した。
原発事故はやっぱり不思議で仕方ない。
こうこうこういう理由で逃げてきたんですという僕の話を今日何度も何度も深くうなずいて聞いてくれた人が、翌日江戸前寿司を食いに行ったりする。
なんだか全然分からない。
中嶋さんに東京の汚染を説明するなら、半減期とか放射能は累積で考えないといけないとかちゃんと科学的にしたほうが良かったのかもしれないけれど、じゃあ科学的根拠に基づいた話を僕が一体どれだけ出来んのかっていう問題があるわけで、出来たにしたってそれは誰かの受け売りで、おまけにそもそも専門家のレベルで意見が割れているのだから、そこに説得力を持たせるなんてそりぁ難しいし、とにかく話をするのは僕なんだから。
誰がどれだけ正確に東京の汚染を説明できるんだろうか。
東京の汚染を国は調べないから市民レベルでやるんだけど、そうなるといろいろ考えがあって中には悲しいかな軋轢も出てくることもあり得るわけだ。悲しいかな。国がやればそもそも国のやることがどれだけ信用できるかっていう問題もあるし、仮にできたとして、また国頼みかと言う不平も出てきたりする。そしてまとまらないうちに結局民間はあてにならないという、権力や権威任せの発想がに風切って歩き出す。個人がそれぞれ言う事に対して謙虚でないというのが個人の権利に疎い事の何よりの証拠だとすればいろんなことに合点がいく。
虚しい堂々巡りが六年半、僕の身近かのあちこちで起きている。
そうかぁと、中嶋さんは僕が岡山に留まるつもりだという返事にどういう風にかは分からないが納得したようだった。
中嶋さんのご実家は津山でしたね。
僕はとりあえず中嶋さんに同調しておくことにする。
そうそう津山。だけど誰も住んどらんの。山田さん、買って。
買うって、今言ったじゃないですか、ギリギリで来たんだって、
と言ったつもりで、うーんと唸ってみる。
今、多いんですよね、住む人がいないって言って困ってる家。
もう、大変よ田舎は。
東京もです。じゃあ、管理とか、どうされてるんですか?
だからこの前も行ったわよ。窓開けて、風通さないと痛んじゃうから。
ですよね。大変だ。
まあ、両親の世話はね、兄夫婦がしてるからまだいいんだけど。
施設かなんか?
そうそう。
ブライダルホールの突き出た屋根がほんのちょっと傾いたかもしれない太陽を微妙に隠して、食堂を横切る影の形を少し変えたような気もする。
僕はいつもと同じように二番目に食べ終えていて、早食いの僕がびっくりするほど食べるのが早いたぶん僕より年長の難波さんがやっぱり先に食べ終わっていて、妹尾さんと大森さんはなにやら話をしている。
最初に食べ終わった難波さんが食堂を最初に出て行って、そして僕と中嶋さんの会話もちょっと切れたので、二番目に食べ終わった僕は二番目に食堂を出ることにした。
会話の最中の中座の仕方は、僕はもうだいぶ習得したように思う。
僕は特に中嶋さんに目くばせすることもなくゆっくり立ち上がり、いつものように横向きのお盆を縦にしてからそれを持ち上げ、コップを右手にとって返却カウンターに向かった。
食器を片づけ廊下を右に出て、また曲がって昼の節電でうす暗くなった廊下の奥の方に歩いて行って、その一番奥にある自分の部屋に入ろうとすると、今通り過ぎた社長室に社長が入ろうとしていたので、僕は思わず少し慌てて声をかけた。
社長さっきの話なんですけど。
ウンと返事をして社長は興味ありの顔で僕の方を見ながら近寄ってきた。
宿泊はどちらなんですか?
銀座銀座。
あ、銀座なんですね。
そうそう。
これ、天気次第だし、この時期ちょっと寒いかもしれないんですけど、屋形船なんてどうかなと。ちょっと思ったんですけど。
屋形船はね、一度乗ったんですよ。
ぐるっとね。ぐるっと一周したたことがあるんです。
そうなんですね。
そうなんです。あれ、フェリーが乗れますね、あれどこだっけ。
竹芝からは乗れますね。
そうそう、なんかね、回ったことがあるんです。
そうなんですね。
そうなんです。
ちょっといろいろいいとこないかなって考えたんですけど。
六本木の防衛省のとこだいぶ変わったんですけど、あんなとこ行っても仕様がないしなあ。
と僕は考えている仕草を見せながら控えめに言ってみる。
いいとこあったらまたいろいろ教えてください。
間を置き社長が軽く頭を下げるので、僕もとんでもありませんと言って頭を下げた。
逃げてきた筈の東京のあちこちを、汚染だらけの筈のあちこちを、僕はどこがお奨めかなといろいろ考えながら誠実に社長にお伝えした。
社長は社長室に入っていき、僕も部屋に入った。
(終わり)
2019年01月19日
2019年1月19日
おはようございます。
今朝は珍しく夢を見ました。
妻と娘が疎開している長崎だか鹿児島だかに遊びに行った夢でした。帰る日、今までなら次はいつ来るとはっきり決められたのに、今回は別れたくないのに、離れ離れになりたくないのに、なぜだか次を決められなくて、今度はいつ会えるのか無性に不安になっていました。よし、今度は今年中、今年中には絶対来ると自分と二人に言い聞かせるように宣言したあと三人で僕が帰る道を歩きました。道はどういうわけか三人で住んでいた東京の家の側にも見えました。娘とは手を繋ぎました。どうにもならないことに途方に暮れました。ゆるい坂を下り丸子川沿いに出たときに目が覚めました。新しい家でした。そうだ引っ越したんだ。
離れ離れになる必要なんかないことに気付きました。疎開を繰り返していた頃を思い出しました。それを書いています。寝息がしています。
今日は土曜日、もう少し布団にもぐっていようと思います。
#原発避難からの
#岡山
2019年01月17日
2019年1月17日
放射線副読本の話題が僕のタイムラインに乗ることが増えています。勤務する学校にもこの副読本があり、暫く山積みされていたものがなくなったので子どもたちに配られているのかもしれません。先生にこの副読本について聞いてみたいことがあるのですが三学期のこの時期、なにぶん先生方はお忙しくしていてなかなかお声かけのきっかけがありません。なんとか本のことをもう少し知りたいところです。
放射線を怖がりすぎないでというのが大まかな内容のようですがならば、まず放射線に関する日本の基準は原発事故以降、原子力緊急事態宣言発令中という大義においても緩和されており、その点からそれは国際的基準と比較すると決して厳しくはないということと、国民は放射線被害から逃げる権利を持っていて、国際的にもその権利についてはそれぞれの状況でそれぞれに認められていて、それがより具体的に示されているのがチェルノブイリ法であるというこの少なくとも二点について説明した上でこの副読本を活用していただきたいと思うのです。
ただ、よく考えると、“安全です”という意味の言葉を使うことによってリスクについての説明をすることが、我々の国、我々の社会において当事者の権利を守ることとして容認されているのだと仮にすれば、なぜ安全面を強調しこのような副読本が出されるのかの理屈は通るような気もしてきて、それでは納得など出来ないというのであれば有効な手段としてやはり「逃げる」ということにつきてしまいかねないなと気付いてしまったりもします。
そう考えて自分のこれまでの、これまでのというのは311より前も含めた生き方の話ですが、それを振り返った場合、それはもうまさに逃げて逃げて逃げまくった人生だったんではないかなと今さらでもありますが気づいた気がしてしまいました。
#この国で闘うということ
2019年01月14日
2019年1月14日
おはようございます。
“避難者”の僕は神奈川の実家に里帰りして、果たして職場に土産を買って帰るかを今回もまた悩んでいます。僕の後悔は、生まれて初めて納得せぬまま本意ではないまま自分の人生を大きく変更したこともありますがそれよりも親を悲しませたことがなによりです。ですから、親父とお袋がいなくならない限り僕はこれから帰る土地を残念ですが、非常に残念ですが愛しきることは出来ないと思います。ごめんなさい。本当にごめんなさい。僕はこれから帰る土地の皆さんに決してお邪魔にならないように過ごします。今いるここには生きている実感があります。ここから僕は自由気ままに飛んでいました。すでに娘の人生をいかに素晴らしいものにしてあげられるか、それだけしか考えていません。なのでそんなことにノスタルジーは感じてやりませんが、いきなりぶった切られた体の血の滲んだ傷口はしみてしみて仕方ありません。ここの鳥が鳴いてます。外は明るいんだと思います。起きて仕度をしようかなと思います。娘はお父さん先に行くよとおばあちゃんのいる下に降りていきました。
原発反対。
#原発避難からの #岡山
1月14日
庭。
新しい住まいには庭どころか自転車置く場所に困るくらいなのだけど、生活の場、闘いの場、生き抜く場としては僕はたぶん満足しているかもしれません。
帰る度、親たちが来る度、少しずつ家族が穏やかになります。今回は杖をついていなかったお袋は本厚木の高速バスの乗り口まで送ってくれた弟の車に同乗し、バスの出発まで待っていました。またおいで、ではなく新しいおうち行くからねとお袋は言いました。だんだん穏やかになりますが、こういう場面僕は好きではありません。弟たちには今年の五月の連休が長いことを教えました。夏行くよと言ってました。いつも今度はいつ会えるんだろうと思うけどすぐ一年とか半年とか経っちゃうねとお袋が言うので安堵もしました。時間は残酷ですが優しいとこもたまにあります。我が家の正月が終わります。長い正月でした。もうすぐ岡山に帰ります。
#原発避難からの
2019年01月09日
2019年1月9日
震災前は二ヶ月に一度は実家に帰っていたかもしれません。もちろん半分諦めていた孫を親父お袋に会わすためです。第三京浜の玉川インターのそばに住んだのは、相模原の実家に行くのに都合がいいからです。16号バイパスは混みますが246みたいにイライラせず東名より第三京浜使った方がわずかに安いからです。世田谷の野毛から相模原の実家まで、一時間かからなかったこともありました。でもだいたい一時間半はみていました。それくらいなら着きました。
最後まで悩んだのはお袋と娘を遠くに離していいものかということでした。岡山に来てからお袋は弱りました。それでも岡山に親父と一緒に七、八回は来たかもしれません。確か去年は来ませんでした。それが間違いなければお袋たちが来なかった年は去年が初めてです。その代わりこちらから二回行きました。嫌いな飛行機も乗りました。ペースとしては、年に二回会わせ続けられています。結構タフさが必要です。年二回が多いのか少ないのかを決めるのはお袋です。それが僕の人生最大の苦痛です。原発反対です。
#原発避難 #岡山
2019年01月07日
2019年1月7日
おはようございます。
なんとか引越しの荷物が落ち着いてきました。娘が二階の部屋の自分の荷物を仕分けしてくれたので助かりました。むしろ僕と妻の荷物の片付けの方がまだまだこれからです。家財道具を整理しながら、新しい家についていろいろ考えた年末年始でした。いろいろ考えた末、これからやないといけないなと気付いたこともあり、また頭の整理も出来たような気がしていてこれはこれで良かったと思います。引越しの疲れがあちこちに出て参ったこともありましたがなんとか収まりそうです。いつもの日がまた始まり僕は次の準備をしようと思います。
まったく不躾で押し付けがましく恐縮この上ないのですが、生活するということが闘うということと限りなくイコールになった我々の姿がどんなかたちでか残ることには今、なんらかの意味はあるんじゃないだろうかと思いながら過ごしています。
引き続きよろしくお願い致します。
#原発反対 #原発避難からの
2019年01月06日
2019年1月6日
日本の原発事故の不幸は選択出来ないこと。復興は被災地の悲願であって土地を取り戻すことに僕たちは伝統的に懸命です。しかし原発の苛酷事故ではそこにはリスクが生じるので、被災者はその選択についてあらゆる判断をする必要があるのに、この国の行政は選択の余地を与えず国の思惑を優先した方向にだけ誘導しようとします。我々の復興に対する思いは気質においても慣習においてもきっと強いものがあるように思いますが、その思いを打ち消す必要は必ずしもなく、僕たちは新たに「選択」を付け加えることで、僕たち独特の新しい民主主義をつくるんだろうと思います。
否定せず新たに付け加えていくことで僕らは民主的になっていくのかなと、そう感じます。
おはようございます。