2018年11月

2018年11月19日

2018年11月19日

小学校からの悪友が僕とのFacebookの友達を解除して全く音信不通になってから数年経ちました。

僕は友達の少ない方なのですが奴はどういうわけかおりにつけ往き来を長年していました。奴から届いた年賀状も、当たり前のようにたくさんあります。

体でも壊したか、家に問題があったのか、ご両親はお元気か、そういう風に心配しました。

 大人になってからの友達にも、やはり急にFacebookの友達を解除した人がいて、何故だろうと解せませんでしたがもちろん、他に心当たりないわけはありません。

彼らにはあの日以降、いろいろ伝えました。

向こうから聞いてきたこともあります。

すぐにいなくなったいろいろなタイプの知りあいはたくさんいますが彼らは最後までいてくれて、僕を理解しきれないことがあるのもそれは仕方ないことだということさえ彼らには伝えきれていると、僕は彼らをそう思っていました。

しかし違っていたのかもしれません。

僕は理解されていませんでした。

理解されないことに心痛めるなどということを、天の邪鬼の僕はそれまであまり経験したことがなかったのですが、これは少し堪えました。

溝は深いなと。

最近あることに気付きました。
 宗教ではないかと。

僕はまったく洗脳されたつもりはありませんが、そう感じる人が遠くでなく近くでさえいる可能性があるのだなとあらためて確認させられた気持ちになりました。

これが内的理由なのか外的なのかは、歴史が判断する、ということなんでしょうか、

もうさっぱりわかりません。

原発反対。



2018年11月16日

2018年11月16日

職場以外で仕事のことを僕はまったく考えないようにしているのですが、今日はきのうある先生に相談された三ヵ所の修繕のことをあれやこれやと考えています。

とりあえずきのう手はつけて大まかには片付けたのですが、仕上げというか、残りをすっきりさせるためにはどうしたらいいかなとさっきから頭の中に道具とやり方をいろいろ思い浮かべています。

僕は用務員ですが自分が用務員だとはまったく思えずそういう社会人としての自覚も今はほとんどありません。僕はいつでもどこでも自分は避難者だとしか思えなくなってしまっています。だから、職場以外で仕事のことを考えないというのは実はある時には意識的であったりもするのですが、あくまで避難者として今そこにいて、目の前の現実とは違う世界で生きていて、尚且つそのような月日をもう何年も過ごしています。

 先生、三ヶ所あるんすよ、一緒に見てもらえますか?

がに股の、僕には田舎の威勢のいいあんちゃんにしか見えない先生に現場を案内して頂いています。

まずこれっすねぇ。

なるほど、何かでひっかいたかな。

書いてあるでしょ。まずこれです、次はあっちっす。

はい、向こうですね。

目立たない場所の大きな修繕。

削るかなあ、とりあえず。削ってそのあとどうするかですねぇこれたぶん。

これなんすよぉ。

なるほどわかりました。

次が先生三階上がんないといけないんです。

三階ですか。はいはい。

そろそろ三十代半ばなんだろうなと勝手に想像している先生の歩はさすが早い。もしかするとそうは思われていないかもしれない五十を数年過ぎた僕はなんとかすましてついていく。

五十を過ぎた僕が岡山の学校の先生と話を交わすなんて、僕の人生の中では予定も予想もしていなかった。あの日がなければまず間違いなく関わりなど持つはずのなかった先生と今一緒に仕事をしているのが不思議で不思議で仕方ない。

僕が先生くらいの歳の時何してただろうと、トントンかけ上がる先生の背中に必死についていきながら思う。僕は毎日ロケばっかり行って夜が明ける前に出掛け日が変わるまで仕事していて、そんな中やっと刹那的で打算的な生活をそろそろ卒業せねばなるまいなと思い始めた頃だったかもしれないと思い返す。

結婚した頃だな。

先生たちは若くて、みな立派だ。
 今僕は二十代三十代の先生と分かったように話をしているけど、きっと二十代の頃の僕などこの先生たちには相手にもされなかったろうなと昔の自分を慰めてみる。

でも不思議なもんだ。だって今も実は大して変わらないのに、それになぜか気づかれないのだから。

時間とはなんだろうと思う。

毎日宴会みたいな日常を過ごし、明日が仕事なのか休みなのか分からなく、帰る時間がないから車で寝て、三食弁当が当たり前で夜食はねえのかと文句を言い、そんな生活から自立して辛うじて残ったスキルと言えない自分の腐りかけた経験を使ってはじめた自分の仕事でこれでなんとか人並みに世間のお役にでも立とうかと考えていたそのあとに、まさかなにも知らない岡山で得たいの知れない先生とかいう人たちと仕事をするなんて思いもしなかった。

2014年の7月2日の朝、小学校の職員室でたくさんの先生たちに注目されながら三十五年ぶりに小学校に通うことになりましたと自己紹介した日が早くも懐かしい。

あの日以来僕の時間は止まっている。
 四十五才のまま五十二才になってしまっていた。

必要か必要でないか分からない焦りがたまに何処からかやってくる。

どこにいるかわからない。どこへ行くかわからない。

しかしこんな未来への混沌を、僕は親として一方で希望に変えてやらないといけない。

寝ている娘のためです。

君の希望を必死に考えている。

我が子として或いは、同志として。

愛というものが見えてきた。

5:38

だ。

#原発避難 #岡山 #原発反対



2018年11月15日

2018年11月15日


娘と帰ってきたら、引っ越しの件どうなりましたかと不動産から電話がかかってきたと妻が言いました。どうなったもなにもなんにも変わりませんよと言うと、引っ越し代を出したら引っ越して頂けるんですかと言ってきたそうです。引っ越すもなにもそちらの都合で勝手なこと言ってはいわかりましたみたいにできるわけないですと店子の権利を当たり前に言っていたのですが、あちらは相変わらず融通がきかないというかなんだかお話になりません。

大家と店子の関係も岡山はいい加減なのか大雑把なのかとまた僕はイライラし、そしてやる気をあっという間になくしてしまいました。

引っ越す元気なんてありません。

 岡山暮らしの最初は移住支援住宅でしたが家賃は一万円でした。一年後に今の長屋に移りましたがその家賃は三万円です。このエリアでは破格です。妻の考えはあると思いますが、僕は家賃など、一円も払いたくないというのが本音です。好きで来たわけでもない土地でなぜわざわざ家賃など払わなくてはいけないのか、そんな思いがどこかにあります。稼ぎもよくない。そもそも稼ぎたいなんて思わない。地に足をつけ生きている実感がほとんどないのになぜ住まいに悩まなくてはいけないのか全然わからない。

ピンチをチャンスに変えるのは、僕はけっこう得意かもしれなかったのですが、そもそもピンチだということを認める気がないから大してやる気がでない。

好きにしてくれという心境です。

くたびれて、それが消える前にまたくたびれる。

まったく自信がなくなりました。

やる気がまったく起きません。

申し訳ないが、あとは妻に任せて一切知らないことにします。

くたびれました。

原発反対。



2018年11月13日

2018年11月13日


夢を見ました。

たぶんこの前帰った実家のお袋だと思います。皆で夕食の卓を囲み、ホットプレートから出る煙の向こうで一人だけ椅子に座っているお袋だと思います。ニュースなのか弟なのかの声で、腐った食べ物をお袋が食べたのか捨てないで大事にとっておいたのかを僕になのか誰になのかはっきりしませんが伝える声がします。

この前の帰郷ではやたらお袋の禿げ上がった額が気になり、それはなんのためのものか分からないバンダナのせいなのかあるいはほんとに禿げ上がったのか定かではありませんでしたが、ただ部屋の明かりと色のコーディネートに同化するような白髪なのか金髪なのかよく分からない髪の毛と、乾いた顔の皮膚と多少の笑顔も出て救われもした硬めの表情が、僕には少しお袋が遠くに行ってしまったように見えていました。

 確かに、この前別所温泉に行った久しぶりの旅行の写真では、女将を真ん中に親父と並んで映っていたお袋の顔は白く浮腫んではいましたが穏やかそうで旅行を楽しんでいるようではありました。

お袋は僕らの避難、いやお袋には移住だったんだと思いますが、それには泣いて反対しました。

生まれて四十八年目で初めてお袋の罵声も聞きました。

この期に及んでなんで僕はお袋に絶望しないといけないんだと僕も泣きました。

お袋と同居する弟の弱音も初めて聞きました。

タクシーで出掛けたのに、帰りはタクシーがつかまらなかったと言って歩いて帰ってきた。何キロあると思ってんだ。なに考えてんだか、お袋よく分からないよと。

夢から覚め思い出すことが山ほどあります。

僕はあの震災で無くしたものはあるのかと、たまに疑心暗鬼になります。家が壊れたわけでもない、津波で家族が流されたわけでもない、避難せよと言われたわけでもありません。家も家族も土地も無くしたわけではありません。

自分が無くしたと思わなければ無くなっていないものを僕は無くしたんでしょうか。

或いは誰が見ても僕は何かを無くしたんでしょうか。

それがよく分かりません。

権利という知恵は、どこまで犠牲を可視化してくれるのか気になります。僕以外の人が僕の犠牲が見えるのか気になります。

相変わらずまた個性として片付けられてしまうのかどうなのか。

それを確かめてみたい気がしています。

今日はまだ五時半です。



2018年11月11日

2018年11月11日

わたしネバーランドに行きたいと言い、この数日娘は僕や妻に聞いてきます。ネバーランドはどこにあるのと。

命の期限について気付いた娘の質問はこのところ毎晩のように続いていて、僕は答えを一語一句間違わないと慎重に構えていましたがもはやそれどころではありません。“ねぇお父さん”と切り出す度僕は今ドキドキして頭の中を必死に整理しますが結局いつも間に合わない。

ネバーランドに行きたいの。
わたし大人になりたくない。
お父さんは大人になりたいと思っていたの?

そう聞く娘に、お父さん大人になりたいなんて実は一度も一秒も思ったことないなんてまさか答えらるわけはありません。僕の娘への嘘が増えていきます。お父さんは大人になりたかったなずっと。

大人になりたくないなら大人にならなくたっていい。
だけど大人になると大人のことが分かるんだよ、だから心配しなくていい。
 不安や悲しみや苦しみはいつか必ず解決するから大丈夫。だから安心して好きなことを探しなさいよ、楽しみなさいね。

まるで自分で自分を諭すよう。

ネバーランドに行きたいの。
ネバーランドはどこにあるの?

いいかい。ネバーランドはそう思うあなたの心の中にあるんだよ。だから安心していい。あなたの心の中にもお父さんの心の中にもお母さんの心の中にもあるんだよ。世界中の人の心の中にあるからさ、だからすぐ行けるの、いいかい、すぐ行けるんだ。だから安心していいんだよ。

ネバーランドは人の心の中にある。

必死に闇雲にすがろうとして出た言葉に僕も救われる。娘はいつもウンウンと頷いて、その度にまた安堵したりもする。

でもまたきっと聞いてくる。生きるとはなんだと。生きるとは正にこういうことなんだと言って理解するにはまだ娘は少し若いかもしれないから、この単純明快な答えはもう少しあとに残しておこうと思う。

娘は少し大人になった。

おはようございます。



2018年11月09日

2018年11月9日

僕はなぜ東京から逃げたのか。

科学的には誰がどう見ても当然なこと、子どもを守るためそれは正しいですよ田代さん、だから自信をもってとおっしゃる方はいますが果たしてそれは本当か。

この七年半の間、僕たちは放射能が如何に恐ろしいかを知りたくて毎日その理由を探し続けていて、“科学的論争”の中でそれはもう完全勝利目前のところまで来ているのだけど、その勝利がなぜかいつも指の間からこぼれ腕をすり抜けて逃げていきます。

 いったいそれはなんなんだ。

疲れまくった僕は所詮それは科学論争なんだとたかをくくってみたりする。万能だと思われる科学は、かつて太陽は地球のまわりを回っていると言っていた。常識という言葉が科学の前では敗北する瞬間を、僕は何度も見てきたような気がします。

それでは「約束」としたらどうだろう。

進んだ世界はその世界中で約束を取り付けることにまがいなりにも成功している。知恵を得た僕たちは、より多くの人類が約束を交わすことで科学にかわる真実を自ら演出することに成功したということではないだろうか。

真実というのはいくつもある。まったく逆説的で悩ましいけれど、むしろ僕たちは選択肢が増えたのだと歓迎してもいいんじゃないか。

一年一ミリという約束は確かにあると信じている。しかしその約束にして無力になり得る空間が存在し、またその空間に自分がいることに憤慨もしたりしてしまっている。

なんだこの国は、この社会はと。

職場の廊下にも、すれ違う人との間にも、お昼の食事中の会話にも、一年一ミリという空気が漂わない。約束はどこだ。権利はどこだ。

なぜ僕は東京から逃げたのか。

そうです、恐いから逃げたのです。
しかし怖がりは相変わらず鼻で笑われる。

約束はどこ行ったんだろう。
 僕はどこに行くんだろう。

#原発避難 #岡山



2018年11月07日

2018年11月7日

今日、先日お貸ししていた放射線測定器のエアSが帰ってきました。福島県内をまわり各所で測ってこられたそうで、大活躍でしたというお礼の言葉を頂いて、僕もお役に立てて良かったと思っています。

他の機種との測定値の比較もされたようですが概ね0.06あたりから0.12程度で数年前に比べると地表1メートルの空間線量は明らかに下がっているという印象のようです。

自治体など行政は、徹底的な除せんを施し帰還事業を促進させ、例えば大熊町ではいよいよ帰還が始まるそうで、一時帰宅を許された元々の住民の方が今まさにその準備をされているということです。大熊、飯舘、浪江、川内など、町により進み方は違うようですが、建て替えられた小学校など町の目に見える「復興」は目を見張るもののようです。

 元々の住民の方の帰りたいという思いも含め、官民あげての町全体が一致団結した復興へ向けた姿を浮かべましたが、同時にそこにある変わることのないなにかを見た思いもあります。

お話を聞きながら、僕はかつての戦争の後の、日本の復興を頭の中で重ねておりました。“もはや戦後ではない”という勇ましい言葉、高度経済成長などに象徴されるこの国の人のへこたれない精神はどこから来るのかと。

“もとに戻す”ために捨て置かれるものを僕は犠牲という言葉で書き表したいのですが、それを犠牲と捉えない我々の文化みたいなものがそこにはあり、それは世界が歴史を教訓に築いた「権利」という知恵に入り込む余地を与えていないのではないかと独特の慣習に気付いた気になりながら、絶望し、また納得も出来得たということになります。

では果たして僕自身はどう生きるか、そしてどうやって子を守るかを考えるとき、やはり腑に落ちてくるのは“逃げる”という言葉になります。それはなぜ東京から岡山に来たのかという問いに対して、“恐いから逃げた”という単純明快な答えを僕は用意出来るということですが、同時に“逃げる”という行為が果たしてこの国では権利になりうるのかあるいは同情を受ける対象の域を出ないのかの模索は続くんだろうなというのがきのうからの結論ではあります。

6時過ぎました。
 皆さんおはようございます。



2018年11月06日

2018年11月6日

僕はもう自分のことしか分からないし、それでよいと思うようになりました。しかし人は大概そういうものではないかなとも感じています。権利とは、そういう人間の欠落を補うのに良くできた道具ではないかなと思うのですが最早、それも錆び付いているのかもしれない。

過ぎ去る時間に対して穏やかに接しています。

前を向いて歩く人は素晴らしい。後ろを見ながら前進できるためには早い時期にがむしゃらであった経験は必要かもしれません。僕はまだ、未成年の子を育てている身ですので達観するわけにはいかないが、僕なりの伝え方が我が子にはあるかもしれないとばかりに一秒も無駄にせず娘との時間を備蓄しています。

 不思議なくらい、とは言わないが今僕の吸う空気は比較的に穏やかです。

#果たして正確に伝わっているだろうかと気にはなるが書いてしまうこれも性分として許せてしまっている

#原発はいらない




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