2017年09月

2017年09月06日

2017年9月6日

用務員をさせていただいて丸3年を過ぎました。2014年4月末に東京の汚染から岡山に逃げてきて連休明けからハローワークに通い運送会社さんに6月の1ヶ月お世話になりその間登録していた臨時職員の人員枠に空きが出来、7月から小学校で用務員をはじめました。

当初契約内容は1年。しかし引き継いだ前任の用務員さんにたぶんもう1年出来ると思うよと言われ、半信半疑のまま残り数が月の頃正式にその旨打診をいただき、2015年の確か7月1日にまず丸1年の契約が切れ、あらためて再雇用ということでもう1年の契約になったのですがこのときは1ヶ月、つまり7月2日から8月1日までは、1ヶ月何時間か忘れましたがフルタイムではなくパートタイムとして勤務しました。フルでは出来ず確か半日、つまり1日4時間勤務となりました(勤務日数か勤務時間数どちらか希望で選択出来ました)。

2年目に入り、2年以上の更新はないとずっと言われていましたのでそのつもりで勤務しました。明けて 2016年早々に、4月の新年度から制度が代わり、簡単な試験と面接でさらに出切るようになるとききました。完全に次の仕事を探すつもりでいたのですが慣れていて好きなお仕事なので悩まず続けることにし、7月半ばに試験と面接を受けその月の終わりに正式雇用の旨口頭および書面にて再雇用契約となりました。そして7月31日退職、8月1日を挟み8月2日から契約期間1年で再雇用となりました。

この間2016年3月に小学校を異動になり4月からは中学校勤務になっています。

新しい制度でまた試験と面接を受ければ続けられルということで2度目の試験と面接を受けたのが今年2017年の7月、先々月ですが、雇用の正式打診がその末、そして先月8月2日からまた1年契約で、結局この夏から僕は用務員4年目をスタートさせています。

今年の8月1日は従ってまた1日無職でした。



2017年09月01日

2017年9月1日


原発事故をどのように記録に残すかは、私たちにかかっているような気がします。あらゆる形で影響を受けた方々はどうやって自分の経験をお残しになっているかが気になります。

いつまでも、辛い気持ちのままいることなく前向きに人生を考えることは大事ですがそのなかで過去の経験を伝えるあるいは残していく事はなかなか難しい。

過去の被害は被害にあった者自らが伝え残さなければならないのは、当事者と認識するものされるものの権利について徹底的に黙殺していく社会の住人であるのならそれは全く本意ではないがある意味宿命なような気もします。

 極めて利己的で主義主張激しかろうとその記録の評価者はむしろ自称他称問わない将来の歴史家ではないかなと、決して言い訳ではなく思います。

僕の場合、娘に伝えておきたいという微かな願いもあります。

原発を四基1度に壊した民族は我々が初めてです。責任と言うと無責任な僕には大袈裟ですが、なるべくありのままを伝え残す手間は、しておいてもいい気がします。



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