2017年02月

2017年02月25日

2017年 02月 25日

娘が誕生日を迎え家でお祝いをしました。ここ数年は相模原にこの時期帰郷し座間のラ・リチェッタでお祝いをしていましたが今年は岡山の我が家で3人で妻の自家製ケーキで祝いました。


6年前の今頃は、やっと歩きだした娘が嬉しくてよく近くの多摩川の河原に遊びに連れて行っておりました。くつを脱がせ芝生のような土のような、ちょっとあいまいな場所をかまわず歩かせてやりました。人の親になることの不思議さと嬉しさに、倍以上のはっきりしない広さに広がった世界を頭の中で僕は駆けずり回っておりました。


娘は2月を1週間と待たないこの時期に生まれましたので、1歳になってから2週間であの地震に遭遇することになります。最後に多摩川の河原に行ったのは3月6日。日記に書いてあるのでわかります。日記は便利。その日記は3月10日の夜に将来の事を娘に託したあと暫く休みました。結果的にですが。ブログを読み返すと地震の日から数日はその日も含めなにも書いていません。書いても状況については書いていない。どういういう心境だったのか、当時の自分に確かめてみたいところです。


東日本大震災から6年。娘との時間はほぼ原発事故との闘いの時間です。悔しいがどこかで自分を責めている。怖いはずの原発を忘れることに暫くの間時間を費やした自分をたぶんどこかで僕は自分を責めています。もちろん、責めていてばかりではいけないことはわかっており、毎日今は前を向いて実践的に動いています。目の前に娘がいますので。


記録について考えます。このおそらく稀有な体験をしている311以降の我々には記録を残すことがかなり大事な役目ではないかなというふうにです。岡山に来るまでは震災以降頻繁にこのブログを更新し、カテゴリーを立て書いていましたが移住後はその数が減っています。Facebookがブログの役割をし始めたこともありますがTwitterも含めて自分の思いの整理が断片的にはなっています。自分の気持ちの整理がSNSというハードの都合次第に、このところなっている節があります。記録を残しておいた方がいいのではないかという考えからすると果たしてこのままでいいだろうかと気にもなり今少し記録の仕方について試行錯誤を始めたところです。


記録について考えていることに加え今少し頭にあることがあるので近況としてもう少し書きます。


去年の10月から月に一度旭川の支流で特に移住者に声かけをしてバーベキューを始めました。暫く休んでいたキャンプ道具が久々日の目をみています。これがなかなか好評でやって良かったと思っています。移住者の心情は複雑です。その心をいくらか休める場をつくることは大事で、そういう事なら出来るかなとここ暫くは思っています。


もうひとつの移住者の場として虚ね秋に岡山県議になられた大塚愛さんを囲んだ議会報告兼ねた交流会があります。移住者の思いを何らかの具体的なものにする作業に窮していました。岡山に原発避難者である議員が登場したことは極めて大きな意味があると僕は信じています。ですのでもはやこれはライフワークのつもりで取り組んでいます。移住者の思いは複雑です。


個々のそれぞれの心情については丁寧にひとつひとつ了解しなければいけない気がしています。記録する事とこれは繋がりますがどのように移住者の思考や意思を見えるかたちにするかの作業について考えていきたいです。


ひとつふたつ、その方法として取り組みたい事が具体的にありますが今日は詳細は留めますが、“あいまいな喪失”という言葉に先日出会い、希望を新たにまた見つけたところではあります。考えれば水車の発電とかも、具体的な勉強のテーマとしてありました。メモ書き用ノートが最近役にたっています。


年のせいは往々にしてあると思いますが、最近人生を時間という線ではなく点だという風に考えるように少しなっています。歳を重ねてからの人生の方が面白いという先を行く人の言うことが近頃なんとなく分かります。


また以前のようにブログを気にしたいと思います。


次回に続けます。



2017年02月21日

2017年2月21日

おはようございます。学校の話します。

岡山に来てからはまず1年9か月小学校で用務員をやりまして今は異動して中学校におりそろそろ1年です。

東京にいた頃と言いますか、それまでの人生で用務員になるなんていうことは気持ちの片隅にもなく、学校の先生には確かにちょっと興味がわいたことはなくはないですが、まあ、皆様と同様といいますか晴天の霹靂みたいことがこの6年あまり続くわけです。

 勤めてみての感想ですが、小学校と中学校ではだいぶ雰囲気が違います。子どもたちの雰囲気が違うのは当たり前ですが職場としてもこの二つは違いました。

規模が倍も違うということで一概に比較は出来ませんが、なにより先生との距離が違います。

小学校では僕は「先生」でしたが中学校では先生だけでなく「さん」の時もあります。呼び方がいろいろです。

小学校の時は僕も職員会議に出ていましたが今は職員会議の間は一人で事務室の留守番を任されています。

小学校では当たり前のように先生全員のお名前を知っていましたが今はやっと半分覚えたか覚えないかくらい。たまに緊急連絡網眺めるとあれ、こんな名前の先生いるんだと感心するレベル(笑)。

また小学校では畑もやりたまに授業に参加したり子どもとの距離も比較的近かったのですが今はそれがなく、施設修繕も先生が率先しておやりになります。

小学校の場合、放課後になれば学童に残る子はいますが基本学校は静かになり修繕などする時間には良かったのですが、中学校はなかなか子どもが帰りません。部活動で様々な動線が学校中を駆け巡ります。

なのでおじさん静かにせざるを得ません。(笑)

当たり前といえば当たり前ですが小学校と中学校は違いました。市職員の用務員は小中園一括ですので基本的にはどこにも行きます。技士長という上司にあたる用務員の方に聞くと、やはり小学校がいいという用務員もいるし中学校がいいという用務員もいるようで好みは別れるみたいです。

僕は小学校ですかね。

違いはあるのですが小学校であれ中学校であれ、共通して感じるのは閉鎖的なところです。

学校は年間のスケジュールがその前年度の終わりに全て決まります。時間も分単位で決まります。一年以上先の5分について協議した時はびっくりしました。先生ってやっぱり頭いいんだなと変に感心さえしてしまった。(笑)

なのでいろいろなイレギュラー的なものに、そこに入る隙が与えられていないというような面をどうしても感じてしまいます。

小学校の時も今の中学校でも、移住について話をしたいとずっとチャンスを伺っているのですが、そんな悠長で秘めた思いは次から次へと畳み掛けてくる日々の予定に押し潰されちゃいます。

とにかくこなしていくという感じがあって、先生たちは子どものためを思う言葉を使いながらスケジュール通りに物事を運ぼうとする感じはやはり否めないです。

今の中学校で感じるのはイケイケどんどん的なマッチョ感。

そして小学校で感じたのは優しい顔で粛々とされる徹底的な管理です。

小学校で、笑いながら手を引き嫌がる子どもを無理矢理教室に押し込もうとする先生たちの姿を見た時は、ちょっとそら恐ろしくなりました。

でも先生たちはみな素敵な先生なんですよ。尊敬し好きな先生ばかりです。

けれどたまに驚くような事されちゃう(笑)。

方法は違いますが中学校でもそれは感じますし実際そういう場面や言葉には出くわします。

まあここで生意気にも考えてしまうことは、小学校中学校問わず、果たしてその環境の中に入ることが難しい子や必死なのについていけない子はどこかでちゃんと救われているんだろうかということです。

囲われるし急かされるし、ペースに乗れる子はいいがそうでない子は何を思っているだろうかと気になります。

ひとつ思うのは、これは現場レベルですが、小学校は小学生の時に小学校が好きだった先生が小学校を運営して、中学校は中学生の時に中学校が好きだった先生が運営しているのではないかなということです。その時好きだった方に行くんだなたぶんというふうにです。

特に中学校勤務になってそれを感じました。

ちなみに僕は小学校は好きでしたが中学校はあまり好きではありませんでした、汗。

法律によって現場が誰にとっても適正に管理されるというのが法治国家であるなら、僕らの国の絆はそれを理解する上でなかなか手強い障壁になっているような気がします。

では具体的に何をするかで社会の問題は解決されていくというのは差当たり僕らが決めたルールではあるはずですが、どういう訳かべっとりとなかなか歯が立たない粘着物がとれませんね。

無理矢理やろうとするがそれではらちがあかなかったりもすると言えばする。

もちろん、堅実な方法を含めて全ての手段は法律が許す範囲で認められる。

堅実な方法の積み重ねに尽きると思わなくはないですが、

強烈なスパイスも適材適所にほしかったりする。

法律とはなんなのか、絆とはなんなのか、そんなことをまた最近考えます。

311から6年、我が家が岡山に来て今度の春で3年。

いろいろありました。いろいろ考えました。

今学校現場で仕事させてもらっていて、わりと自由に考え、言えてしまうので学校について、この際書いとこうと思いました。

#原発避難 #岡山



2017年02月18日

2017年2月18日


今日はドームのフリマから始まって庭瀬の集いにちょろっと顔を出しました。ドームではいつもの移住者の仲間に会えました。庭瀬は今日は盛況で、福島から下見かねての参加のお母さん家族が数組いらっしゃいました。

福島から来られたお母さんを前にすると
 やはりたまらなくなるものがあります。
 一見は普通のお母さんですが、たどってきた道の壮絶さ、今歩く道の過酷さを思うと、よくぞここまでたどり着きましたねと、声をかけたい気持ちになります。

 自己紹介と告知をさせてもらった後中座して、きらめきプラザの都市ビジョン研究会。
 正直庭瀬に後ろ髪引かれる思いもあったのですが、都市ビジョンの今日の二つ目のテーマが

「岡山の交通マナー向上に関して」

っていうことでしたので、ロケ屋と介護タクシーで22年東京で車の運転を生業にした僕が行かないわけには行かない(汗)。
こちらでも良い議論に参加させて頂きました。

娘は今日は久々お母さんと一緒。妻も今日は移住者交流会に参加しました。

そして明日娘はECCの検定面接試験です。

もうすぐ丸6年。
 忘れるどころか311は生活そのものです。
 一瞬たりとも切れることはなく、すべてが繋がっています。



2017年02月10日

2017年2月10日


Re:
 2017/02/10 07:00:34

おはようございます。
 北区南方の田代です。

 放射能汚染防止法制定に向けての諸活動に賛同致します。

原発や放射能の問題は、私たちにとっては何よりも優先されうる切実で決して忘れることの出来ない問題です。

まさに人生そのものと言っても言い過ぎでは無くなりました。

おそらくは、皆様それぞれが311以降様々な形で原発や放射能に対しての強い意思表示をされてきているのではないかなと思います。

しかし、国の原子力政策や放射能汚染の認識や対応は私たちが望むものとは大きくかけ離れ、避難指示区域への帰還政策に至ってはそれは非人道的であり狂気の沙汰と言わざるを得ません。

20ミリシーベルトは国際原子力機関が放射能苛酷事故直後の暫定的な基準とした数値範囲の最高値であり、それを通常の生活のための帰還措置として子どもや妊婦を含めた居住者に一律に適用するという行政の対応は対応というような代物などではなくもはや実験です。

私たちはこの6年近くのあいだ、自分や家族をまさに人生をかけて守ってきました。そして原発反対の声、放射能から子どもを守ろうという声を挙げてきました。しかし社会はその声を私たちの期待通りに受け入れてくれません。何故でしょうか?

311のような最悪の放射能事故を経験してもなお一連の脱原発や反原発運動を時に左翼的な運動の一部としか捉えない社会の硬直さ、そしてそれを誘導する政治の利権化とメディアの末期的な無責任さに原因があるんじゃないのかなと、思えて仕方ないです。

2012年に改正された環境基本法によって放射性物質は「公害」として位置づけられる事になりました。

これは原発と放射能の問題を既存の公害諸問題と同列に法律論争が出来る基礎が出来たことを意味していて、さらに「公害問題」としてそれを認識し、環境や子どもを守りたいという極めて純粋で分かり安い問題としてそれを議論せざるを得ないという社会風土の整備がされていく、そのひとつのきっかけになるのではないかなと感じます。

原発や放射能の事がより一般的問題になり受け入れられ安くなる。

放射能汚染防止法の制定はその第一歩になり、また制定に向けた行動は、原発反対や放射能から子どもを守るという私たちのより具体的な意思表示になると思います。

西日本で移住者が突出して多い岡山は脱原発の最先進県だと思っています。

その岡山から原発反対、放射能から子どもを守れという具体的な意思表示は極めて意味があり、全国への協力な後押しにもなると感じます。

ですので、様々な形でこの活動が認知され賛同を得られることを是非にと願います。

長々とすいませんでした。
よろしくお願いいたします。



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