2019年03月10日

我が家のギリギリ移住計画113

明日は3月11日ということもあって、やはりいろいろなことを思い出します。なるべく考えないように、思い出さないようにしてみるかとも思うのですが、そう思ったすぐそのあとにはあの頃のことを思い返しています。考えるというより思い出すというのがこの時期です。そういえば、僕は311以降歌を聴いて平気で泣くようになりました。それまでは、歌を聴いて泣くなんてことは確か皆無だったはずです。直後は歳のせいだと誤魔化してみましたが、今思えば僕は当時四十五歳。そうするには多少無理はありました。

2011年の3月10日の夜に僕は娘に向けての日記を書いています。生まれる少し前から言葉を書き残そうと思って書き始めたノートです。感謝と未来が書いてありました。その次のページはまるまる見開き二ページ何も書かずにあいていて、その次のページに9月になってから書いています。

今年は1月末からインフルエンザになり、それ以降今に至るまで体調が戻らずにいますがなんとかもう一息で治りそうなところまで来た感じです。毎晩頂いていた焼酎は今も飲む気になりませんが、いくら食べても増えなかった体重が今日あたりから少しプラスに動くようになりました。頭痛に耐える体力消耗が減った分、体重が戻りだしたんだと思っています。年始の引っ越しの疲れも考えると、今年は満身創痍といった感じです。

この二年ほどは以前のようにいろいろな活動には参加せず、専ら心の問題と闘っています。

そして個人の権利について考えることに多くの時間を割くようになりました。

事故後八年を経て、いまだ汚染の実態について我々はそのほとんどを把握せず、可能な限りの社会的な共通認識のようなものさえ持ち得ていません。その中での科学論争はもちろん不可欠だと思いますが、僕は怖いと感じる権利について考えます。逃げる権利について考えます。チェルノブイリ法は科学的に汚染や被曝を区別することですべての当事者に共通する心の問題、僕はそれの多くは喪失感だと思うのですが、それを権利という形において保障しているのだと思っていますが、残念ながらこの国この社会にそういう考え方は一般的でありませんし、伝統的でもありません。大丈夫か大丈夫でないかを本人ではなくその発端を作った側が決めようとし、それにあまり人々が疑問を持たない社会の中で、毎日毎日僕は東京からの原発避難者として途方に暮れています。

僕は当事者ですが、あくまで原発事故の当事者でしかありません。世の中には、様々な事柄に対しての当事者が存在します。社会は、何らかの問題についての当事者たちの集まりでできているということに、自分が当事者だと認識するようになってしばらくしてからそのことに気づきました。なんとも情けないことです。僕は原発避難者として残りの人生を過ごします。そして社会のあらゆる当事者の存在を意識します。

それにはまだまだやさしさが足りないなとは思いますが。

絶望するのをやめるのは意外と簡単です。しかし絶望するのはもっと簡単です。

それが人間だから仕方ないのだと思います。

嘘を知らない娘に嘘はつけない。それが人情です。他に人間が信じられるものがあるなら教えてほしいです。

娘のいる隣の部屋で書いています。もっと書こうと思ったことがあったように思いますが、娘の工作の質問を優先しています。娘は今日は金庫をつくりました。

明日は自分の気持ちのコントロールで一日忙しくなると思います。笑い声がいつにもまして許せない日になります。しかし、許すことからすべてが始まることも一応分かってはいるつもりです。

八年です。長いのですか、短いのですか、それだけでもいいから誰かに今について教えてほしいです。

それでは明日にそろそろ備えます。


次回に続く。

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2014 東京→岡山→ 原発事故という我々の無責任について。 我が家のギリギリ疎開計画 https://t.co/h63Rn0E2fX
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