2019年02月14日

「約束」

 私たち家族が東京からそれまで縁もゆかりもなかった岡山に来て間もなく五年が過ぎようとしています。今私は学校の臨時職員、妻は介護福祉士として仕事をし、娘は今春で小学四年生です。

 四十歳を過ぎてからの子どもということもあるのでしょうか、娘の身の周りのことに関して私は自分でも過保護かなと思うくらいに世話をやいてしまい、また私の両親にしても念願の孫ということもあるせいかまるで人が変わったように可愛がっています。しかしそれは遅ればせながらの親孝行でもあり、拍子抜けしながらも内心私は安堵したりもしています。

 東京にいた頃は、神奈川の実家には二か月に一回かそれ以上の頻度で帰っておりました。半ば諦めていた孫ですので、両親には出来るだけたくさん会わせてやりたいという思いが強く、またそれが自分にできる数少ない、そしてやっと出来るようになった親孝行の一つだと考えて、休日時間が出来ればいそいそと私たち家族は実家へ帰っておりました。

 そんな暮らしを一変させたのが、娘が生まれて約一年後に発生した東日本大震災、そしてあの時に起きた東電原発事故でした。食材への不安、水への不安、土への不安、空気への不安、生活への不安、将来への不安、そういったたくさんの不安があの事故をきっかけに一気に膨れ上がり、東京といえども、このままここに住み続けていては娘の健康や将来を守りきることが出来ないかもしれないという思いが日を追うごとに大きくなっていきました。

 しかし一方では今まで通り娘を両親に会わせてやりたいという思いは変わることがなく、孫を親に会わせるということと、どんなことがあっても娘は守りきるというふたつの約束の狭間で、しばらくの間私は悩み続けることになりました。

 私の母はなかなか私たちを理解してくれませんでした。そして終始私たちの岡山行きに反対し続けました。分かってもらいたいと必死でしたが、それは難しいことでした。

 母との気持ちの溝が埋まることがないまま、私たち家族は岡山行きを決断しました。間もなく娘が四歳になろうとする頃です。私はこれが苦渋の決断であること、仕事と住まいと託児には目途が立っていること、岡山は思うほど遠くはないということ、すぐ来られるしすぐ行けるということ、他に心配することは何もないことを両親に丁寧に話をしました。

 原発事故は、たとえ親子でも物事に対しての感受性の違いはどうにもならないということを教えてくれました。理解し合えないまま私たちは岡山に来ることを決断しましたが、事故に対する受け取り方に違いがあることが仮に仕方がないにせよ、私たち親子の心の分断までもそのまま放っておくことは到底できないことでもありました。私は岡山に行ったあとは今までのようにはいかないけれど、少なくとも半年に一回は両親に娘を会わせようということを何よりも先に決めました。簡単でないことはよく分かっていましたが、なんとしても約束は守りたいという、それはもはや意地のようなものでもありました。

 しかしそう決めても目途など全くありませんでした。それを救ってくれたのは私の弟です。私たちが岡山に来た直後に、まるで後を追いかけるようにして弟が両親を岡山に連れてきてくれました。五月の大型連休の時でした。

 老体に鞭を打ち、六百キロ余りの道のりを孫に会いに来る両親に、私は暫く甘えることにしました。これも仕方のないことなんだと、どうか分かって欲しいと心の中でそっと詫びていました。

 それ以降、両親と弟は約三年の間に年二回のペースで七回岡山に来てくれました。しかし“また来ればいいよ”と気安く言い続けることが私の中で徐々に難しくなっていきました。娘のリスクを避けるために岡山に来たのに、なぜわざわざこちらから関東に帰るのかという私たちからすれば至極まっとうな理由は、年老いた両親にいつまでも“また来なよ”とは言えないという気遣いと頻繁にぶつかりあい、その度に同じ疲労感を味わいます。パートをやめた母は足を痛め少し弱ってきており、孫に会いに来る姿は痛々しくさえありました。いつからか、母は“来るのはこれが最後だよ”と言うようになり、その言葉に私は“今度はこっちから行くから”という言葉を返すようになっていきました。いずれはこちらから行くようにするしかないのかもしれないと、私はそれが覚悟なのか当たり前の親孝行なのか分からないままそう考えるようになっていきました。

 二千十七年の猛暑と言われたあの夏、片足を痛そうにして歩く母の姿がいまだに私の目には焼きついています。

  一緒に岡山に来た父と弟が先に帰り、残った母が我が家に来てから間もなく一週間ほど経とうとしていたある日、私と妻の仕事の都合でやむを得ず母と学童を休んでいる娘に留守番を頼むことになりました。朝出かける前に娘を呼び、ご飯がジャーにあること、海苔が食器棚の一番下の引き出しに入っていることを伝えて、いいかい、お昼はツギちゃんに海苔巻きをつくってもらいなよ、ちゃんと教えてツギちゃんにやってもらいなね。ツギちゃんはおばあちゃんなんだから、頼むねと言いました。娘はなんとなく分かったように返事をしたのですが、結局娘が自分で海苔巻きをつくったようで、夜勤に出かける妻が写真をつけてラインでそのことを教えてくれました。

 一番の心配は娘の習い事で、母が娘と一緒に歩いて十五分の教室まで行くくらいはおそらく大丈夫だろうということで母に娘の送りを頼んでいました。母には何かあったら電話をするように言っておいたのですが、いざ出かけの予定の時間を過ぎても到着するはずの時間を過ぎても電話が静かなまなので少し心配になったのですが、暑い中なんとか二人で行けたのだろうと安心しかけたとたんに電話がかかってきました。私は“家に戻って来たよ、なんとか送ってきたよ”という母の声を想像しながらスマホを耳につけました。

「暑くてさあ、疲れちゃってさあ、塾で待ってるから。」
なんだ、まだいるのかよ。
「なんだ、教室に居ていいって先生言ってくれたの?」
「いやいや下だよ。下で待ってるから。」
「下って、外かい?」
「そうそう、だから待ってるから。」
気温三十七度。
なにしてんだよ。
気付けば母は、それこそ縁もゆかりもない場所で炎天下、私を待っていました。
なんでお袋は岡山のこんな場所で一人ポツンと暑いなかいるのだろうと無責任にも不思議な気分になってしまいました。
自分はなにをさせているんだろうと、私は自分のしていることにたちまち自信がなくなっていきました。
「もう終わるから。行くから。」
「ゆっくりでいいよ。」
すぐ行くよ、なに言ってんだ。
母は塾の建物をL字で囲む低い煉瓦の塀にちょこんと座っていました。一応ちゃんと帽子、被ってる。
車のクラクションをギリギリ小さく鳴らしたら、すぐに立ち上りこちらに歩いてきます。
なんだよ、その無表情。
やれやれ。
よく冷えた車の中で私は娘を待ち、お袋は今度は孫を待ちます。
テレビの音。
今日は暑かったよ、今日は特別暑かったよと、私は今日は誰でも暑かったことを強調しました。

 静かに確実に時間が流れていきます。そして私は果たして自分は酷いことをしているんだろうかと自分が疑わしくなりました。

 絶対だと思っていた確信が、なぜか揺らぐ一瞬があります。そして我々親子は今どこにいるんだろうかと、どこに立たされているんだろうかと途方にさえ暮れてしまいそうになります。なるべくなら、できるだけ早くそれを知りたい気がしています。

 この夏を最後に、両親は岡山には来ていません。岡山に来る度に言っていた“これが最後”というのが現実になっています。それ以降は都合三回、私たちが両親に会いに行っており、年に二回両親と娘を会わせるという“約束”を私は必死に守っています。それはなにより私たちの約束だからです。しかしそれでも心のどこかにある隙間を埋めきることは出来ません。それはもはや私たちだけでは解決できないことなのかもしれません。

 もしあの時の判断が法律や常識により正当に社会が認めるのでれば、ここまで私たち家族が苦悩することはなかったのではないかなと思わないではありません。自業自得と言いかねない残酷さをはらんだ社会においての“約束”とはなんなのか、私はあえて問うてみたい気がしています。

 もしかすると今度はまた父と母は岡山にやってくるかもしれません。私たち家族が引越しをして、その新しい家を見に来るという大義名分が出来たからです。

 夏が楽しみです。そして今年の五月の大型連休がいつもとは違い長いことも、一応弟には伝えてはあります。

(終わり)




kaigo_taxi at 11:48コメント(0)
作品 | 2019年

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