2018年12月06日
写真の話です
2018年12月6日
写真の話です。
最近また写真撮りたいなと思うようになりました。まったくの素人で、ロケの合間に当時出だしたカメラつき携帯でなんとなく撮りだしたのがはじまりで、そのうち弟の一眼レフを暫く借りてわざわざ出かけて撮ったりしていました。どっかにまだあの時のネガがある筈です。
ロケのドライバーは東京の風景に関心を持ったり実際に写真を撮るには都合のよい仕事でした。カメラつき携帯の登場はいうに及びません。
いつでもどこでも東京は僕にとって被写体でした。東京という街の刹那さはそのまま僕の、或いは人間の“切なさ”に重なり、東京を写すことが僕の混沌を写すことになりました。そして写真を撮ることそのものが東京を撮ることであり自分を撮ることでもありました。
結婚し仕事を替え娘が生まれる中で写真のことを忘れていきました。写真でない場所に自分をみつけたということです。そして311。
僕は311後の東京を撮っていません。何が撮れただろうとあらためて想像する瞬間もないではありませんが、あれ以降の自分、あれ以降の世界を写真に納めることなどとても出来ないかもしれません。
そして今岡山です。僕は毎日岡山の風景を見ていますが、岡山の風景というよりも、今毎日見るその風景は僕には311後のどこだか分からない街の風景といった方が実はより正確かもしれません。
得たいの知れない世界の街。
今見る風景を写しても、そこに写るのはなんなのか僕にはいまだ全然分かりません。だから、まったく撮る気がずっとしなかった。なにを撮ることになるんだろうと。
でも最近また撮りたいなと思うようになりました。ただそれは風景ではないだろうと思います。風景に僕はいないのですから。僕はどこにいるだろうと探します。
人かもしれないとも思います。
人は撮ったことがないのですがもしかしたら人を撮る写真の中に僕はいるかもしれないと少し感じています。
今はまったく自信がありませんが。でもそこに自分がいることは分かってはいます。
人は感じたことを表現することでしか存在し得ない気がします。方法は千差万別。残すということではない、今いるということの確定。
今いるということをちょっと撮ってみたい気がしています。
#原発避難 #岡山