2018年12月03日
「出川哲朗の充電させてもらえませんか?」
2018年12月3日
「出川哲朗の充電させてもらえませんか?」という番組を面白くて最近欠かさず視ています。
今回は日光から会津を通ってゴールは喜多方でした。僕は今回はあまり視る気がしていなかったのですがいつも通り録画もして視ました。
いつもの出川さんの人となりを視て、もう少し以前なら僕はなんだ出川さんもなにも言えないのかとか、なんにも知らないのかなどと次から次へと裏切られていくテレビに脱力し、そしてそこに映る人々はどうしてそこに住めるのか、なぜそんなところを旅しようなんて思うのか、不思議というか愚かだなとも感じていたのかもしれないのですが、今回はそれが少し違いました。
人が土地を愛し、人が人を愛し、風景に癒され、郷土を伝えようとする心は変わらず、そしていつでもどこでもそれは変わらなくてもいいんだなということをあらためて思い直し、人の暖かさやこどもの無邪気さも変わらなくてよいものとして拝見することが出来ていました。
ただ、彼らには約束がされているのか、ということだけが気になる全てのほとんどでした。つまりここは汚れています、これだけのリスクがあります、その上でそこにいることもいないことも自由ですというような選択の自由がどれだけきちんとされているのかということが気が気で仕方ありませんでした。彼らは選択した上で日常を続けているのかという風にです。
それがないのならかわいそうで仕方ない。
人は不幸が起きてほしいなどとは当然思わず、仮に起きても過小評価しようとするものなのかもしれません。しかし、これだけ民主的でなければいけなくなった世界でそれをそのまま仕方ないものとしてほおっておいていいのかとも思います。
原発は極めて民主的でないと動かしてはいけないものではないのかという風にです。
伝統的にも科学的にもあまり変わらない世界がグローバルに超科学的に変化せざるを得ない時に、人々の心をなだめるのが民主的手続きという人間が発明した道具なのではないかなと思えて仕方ないのですが、違うのでしょうか。
僕は日本に住んでいますがだからこそ分からないんでしょうか。
起きないといけません。
おはようございます。