2018年11月16日
職場以外で仕事のことを
2018年11月16日
職場以外で仕事のことを僕はまったく考えないようにしているのですが、今日はきのうある先生に相談された三ヵ所の修繕のことをあれやこれやと考えています。
とりあえずきのう手はつけて大まかには片付けたのですが、仕上げというか、残りをすっきりさせるためにはどうしたらいいかなとさっきから頭の中に道具とやり方をいろいろ思い浮かべています。
僕は用務員ですが自分が用務員だとはまったく思えずそういう社会人としての自覚も今はほとんどありません。僕はいつでもどこでも自分は避難者だとしか思えなくなってしまっています。だから、職場以外で仕事のことを考えないというのは実はある時には意識的であったりもするのですが、あくまで避難者として今そこにいて、目の前の現実とは違う世界で生きていて、尚且つそのような月日をもう何年も過ごしています。
先生、三ヶ所あるんすよ、一緒に見てもらえますか?
がに股の、僕には田舎の威勢のいいあんちゃんにしか見えない先生に現場を案内して頂いています。
まずこれっすねぇ。
なるほど、何かでひっかいたかな。
書いてあるでしょ。まずこれです、次はあっちっす。
はい、向こうですね。
目立たない場所の大きな修繕。
削るかなあ、とりあえず。削ってそのあとどうするかですねぇこれたぶん。
これなんすよぉ。
なるほどわかりました。
次が先生三階上がんないといけないんです。
三階ですか。はいはい。
そろそろ三十代半ばなんだろうなと勝手に想像している先生の歩はさすが早い。もしかするとそうは思われていないかもしれない五十を数年過ぎた僕はなんとかすましてついていく。
五十を過ぎた僕が岡山の学校の先生と話を交わすなんて、僕の人生の中では予定も予想もしていなかった。あの日がなければまず間違いなく関わりなど持つはずのなかった先生と今一緒に仕事をしているのが不思議で不思議で仕方ない。
僕が先生くらいの歳の時何してただろうと、トントンかけ上がる先生の背中に必死についていきながら思う。僕は毎日ロケばっかり行って夜が明ける前に出掛け日が変わるまで仕事していて、そんな中やっと刹那的で打算的な生活をそろそろ卒業せねばなるまいなと思い始めた頃だったかもしれないと思い返す。
結婚した頃だな。
先生たちは若くて、みな立派だ。
今僕は二十代三十代の先生と分かったように話をしているけど、きっと二十代の頃の僕などこの先生たちには相手にもされなかったろうなと昔の自分を慰めてみる。
でも不思議なもんだ。だって今も実は大して変わらないのに、それになぜか気づかれないのだから。
時間とはなんだろうと思う。
毎日宴会みたいな日常を過ごし、明日が仕事なのか休みなのか分からなく、帰る時間がないから車で寝て、三食弁当が当たり前で夜食はねえのかと文句を言い、そんな生活から自立して辛うじて残ったスキルと言えない自分の腐りかけた経験を使ってはじめた自分の仕事でこれでなんとか人並みに世間のお役にでも立とうかと考えていたそのあとに、まさかなにも知らない岡山で得たいの知れない先生とかいう人たちと仕事をするなんて思いもしなかった。
2014年の7月2日の朝、小学校の職員室でたくさんの先生たちに注目されながら三十五年ぶりに小学校に通うことになりましたと自己紹介した日が早くも懐かしい。
あの日以来僕の時間は止まっている。
四十五才のまま五十二才になってしまっていた。
必要か必要でないか分からない焦りがたまに何処からかやってくる。
どこにいるかわからない。どこへ行くかわからない。
しかしこんな未来への混沌を、僕は親として一方で希望に変えてやらないといけない。
寝ている娘のためです。
君の希望を必死に考えている。
我が子として或いは、同志として。
愛というものが見えてきた。
5:38
だ。
#原発避難 #岡山 #原発反対