2016年04月09日

ちょうど2年前の4月9日の夜に僕の携帯がなりまして

2016年4月9日 ·


ちょうど2年前の4月9日の夜に僕の携帯がなりまして、それは当時4才の娘を連れて既に岡山に来ていた妻からだったんですけど、

託児も仕事も決まらない、半年の期間限定の支援住宅の1ヶ月が過ぎたのになにも進まない。お金も底をついてくる。もうダメだお父さん、やっぱり一緒に住もう、岡山に来てくれという電話でした。

当時は僕は東京で自営で介護タクシーっていうのをやっておりまして、許認可事業だしお客さんもいたりして、確かに当時売り上げがかなり落ちていたりもしたんですがまあなかなかやめられなくて、それでも僕も切羽詰まった感じになってましたんでどうしようかと、そんなら仕事やめちゃうよいいんだねと妻にかまをかけてみたんですが、そしたらいいよって言うんですね。
許認可事業だからね、一旦やめたら面倒臭いよ、すぐに戻れないよ、お客さんだっていなくなるよ、そっち行ったってなにできんだか分からないよ、いいのそれでもとまた聞いたらそれでもいいから、あたしが何とかするから、お父さんが来てくれたらすぐ仕事決まるとおもうから、とにかく来てくれって妻が言いました。
でも知らないよどうなっても、いいんだねとまた言ったらそれでもいいよ、お父さん一緒に暮らそうと言うんですね。仕事で使ってる車の毎月のローンだけなんとかしてくれたら後はあたしがなんとかするから、兎に角こっちに来てくれって。

よしわかったっていうことで、その電話で僕、岡山に行く事を決めまして、その電話からの2週間で家の片付け、仕事の整理、役所、運輸局、銀行諸々通いお客さん全員に事情お話しし、同業者仲間にも伝え引き継ぎしてもらって、そして泣いて反対するお袋を説得し、荷物積んで岡山往復し、まだ足りず梱包したりなんかして郵送したりなんかして、リサイクルショップに要らないものもってったり、全てきれいに、東京をきれいサッパリ片付けて、それで約2週間後の4月28日の夜に家財道具リクライニング全く倒せないくらいに積んで、別に夜逃げではなかったんですけどなんか夜逃げみたいに静かに世田谷の二子玉川っていう所から出てきたんですね。

あの、実はうちは5年前の東日本橋大震災の以降、特に小さな子どもを関東でと言いますか東京で育てることについてとっても不安を持っていて、ありとあらゆる試行錯誤、ありとあらゆる葛藤をずっとしておりました。そういう意味でも切羽詰まっておりまして、それでそのよう事になっていったんですけど、

そして直後のゴールデンウイークがあって、ゴールデンウイークひたすら寝てて何してたんだか全く覚えてないんですけど、そしてハローワーク通いやってたまたま運送屋さんのお仕事頂けて、同時に市の職員の募集も見つけて応募したりなんかしまして、それ、なんかちょっとどれにも興味が湧かなかった中で唯一面白そうだなと感じたものだったんですけど、それは市の臨時の職員で、内容は市内の幼稚園・小学校・中学校の用務の仕事です、近くであきが出たらご案内しますっていうものだったんですけど、すぐ応募して、そしたらわりと早い時期にご連絡頂けて、あきが出来ました、勤務の場所は大野小学校という小学校です、如何されますかという事だったんで、それではお願いしますとすぐにお返事をしました。

そして6月の17日、かな?、初めて学校に来させて頂いて校長先生に面接して頂いて、そして7月2日の朝の職員朝礼で挨拶させていただきました。あの日から1年9ヶ月、皆さんにはたいへんお世話になったと、感謝してもしきれません。

とまあ、
お別れの会で話したいことはまだまだ山ほどある。
おはようございます。



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