2012年03月11日
我が家のギリギリ疎開計画22
2012年 03月 11日
今日は一人になってはじめて焼酎を抜く夜、・・と、そう書くつもりだったけど、調子が出てきた。
薄めに一杯。
今日は忙しかった。
きのう相模原の実家へ行き、泊ってきた。
孫を連れずに一人で行くのは忍びなかった。
けれど、お袋は理解してくれていた。
“もうさぁ、地震いつ来るかわかんないんだから。
怖いよ、東京みたいなところにいたって・・。”
と、お袋は本心なのか、あるいは地震に理由を置き換えて自分なりに納得しようとしているのかはわからないけど、とにかく強い口調で言っていた。
今のことをずいぶん本音でしゃべれた。
初めてかなと思うくらい、よくしゃべった。
酒がすすんだ。
お陰で久々頭痛が出た。
悪くない、夜だった。
今朝は残念ながら頭痛が残っていた。
仕事があるのに。
僕は工具セットを持って久々にMY VWに挨拶に行った。
お利口さんは相変わらず目の前の電信柱をじっと睨んでいた。
お疲れさんと、僕は礼を言う。
済まんけど、しばしお別れだ。
別れるわけじゃない。
いっとき走る権利をお預かりさせてもらうよ。
できるなら、いつか君をきれいにして、ピカピカのナンバープレート付けてやりたい。
その時は、娘のお世話も頼みます。
君らあんまり付き合いないからな。
とりあえず、とりあえずしばしお別れだ。
14年分の錆をCRCで落としてやって固いナットを緩めた。
とりあえず、ありがとう。
今日は特別な日だ。
追悼はいいが、振り返るのは勘弁してほしい。
まだ終わりもしないことをなぜ振り返るのか、君らは子供を見捨てるのかと、聞いてみたい、というか、罵倒してやりたいと思うし、映像の連続は趣味が悪い。
僕の嗚咽もなかなか止まらない。
僕は車のテレビを消す。
消しても運転中はどうも、余計なことを考える。
突然泣き出してしまう。
あぶねぇな。
お袋がおかず付のおにぎり弁当を持たせてくれた。
世話がやける子供だな。
昼に帰ってきて仕切り直し。
用足しが一件。大井町に行く。
面倒くさい。ガソリン勿体ない。
高いんだよね、今、ガソリン。
14時46分が気になる。
一時間前、去年のあの時、揺れに遭遇した同じ場所で信号待ち。いい感じじゃない。
中原海道の石川台の信号です。
14時46分は運転中だった。
実車中だったから心の中でそっと黙祷。
15時半過ぎに帰ってきた。
さぁどうするのかなと自分で自分を注目したら、さっさと次の出かける準備をし始めた。
今度はジーパンで帽子はニット帽。
目指すは国会議事堂だ。
やっぱりじっとはしてられなかった。
久々の電車。二子からだと一本だから、永田町で降りた。
外へ出たらいきなり人の渦。警察官の山。
そしていきなりストップ。
先へは進めませんだって。
国会議事堂周辺にこれだけの人が集まった光景を僕は初めて見た。
結局僕は永田町の駅から
警察の議事堂よりの歩道の封鎖のおかげで一端首相官邸の坂道を降り、外堀の裏を抜け溜池からまた上って首都高の霞ヶ関ランプまで歩いた。
行けども行けども歩道封鎖。
日本国憲法では集団結社の自由はこれを保障するとはっきり書いてある。
僕は警察の行使によってその権利を一部妨害された。
弾圧はいつでもある。
教科書の中だけの話じゃない。
僕が本気で戦おうと思ったら向こうから太鼓をたたく音が聞こえて坂を登りきったら外務省の脇からデモの行進が見えてきた。
今まで一人さみしく歩いていたのにこりゃまたものすごい人。
そんな感じだった。
よかったよかった。合流合流。
警察発表は7000人だと誰かが言っていたのが聞こえたけれど、そんなもんじゃなかったな。
ヒューマンチェーン。
国会議事堂を手をつないで包囲する。
2,3周できたんじゃないかな。
今度は国会会期中の昼間がいい。
彼らを攻めなければ僕らのいる意味がない。
頭のいい連中は頭を使うことばっかりに夢中で、この明りの眩しさを知ろうとしないのだ。
愚かなんです、そういうのは。
分からないのであれば
退場していただかないといけない。
それは理屈なんか駆逐する心がここにあるから。
死んでも離してはいけない心。
しっかりしよう。僕らはしっかりしないといけない。
だらだら、後半の面倒くささがよく出てる。
いつものことながら、
スイマセン。
次回に続く。