2013年05月24日
我が家のギリギリ疎開計画63
おはようございます。
我が家は自営で預貯金もスズメの涙程度で、将来の保証も何にもなく、財産もなく、あるとすれば兄に比べて遥かにしっかりした僕の弟のスネくらいなものなのですが・・・汗。
タダほかのおうちとはっきり違うことは“まったく何の縛りもない、うちは全くの自由”という、あんまり根拠のない確信を夫婦ともども持てているということだと、僕ら勝手に思っております。
有給もありませんし、手当も昇給もありませんし、転勤願なんか出せるところがありませんし、退職金もありませんし、そして僕もあと3年で50ですし。
そう簡単には動けないです。
自殺行為。
しかしそれでも僕は逃げてやろうと思っています。
放射能からではありません。
放射能をまき散らしておきながら知らん顔をしているこの日本という国家に対して、お前らはノーだという意思を表すために逃げます。
背中に恐怖のある逃亡ではなく、眼前に意思がある前進です。
首都圏を離れるというのは国民である僕らの意思になると思います。
逃げるとはなにも物理的に逃げるだけが逃げるじゃない。
それは現実的ではない面もあります。
だから首都圏にいる以上はその代わりにやることがたくさんあるのかもしれない。
僕が去年の夏から米大使館の前に立ったのはたぶんそういう気持ちがあったからだと思います。
今僕は物理的に逃げることを多く考えています。
第一段階の今は逃げるではなく逃がすです。
去年の4月まで妻と娘は疎開を繰り返しました。
それ以降先月まで、妻は資金を集めるために夜間のパートに出て、僕は代わって娘の世話をやり、金曜日の夜は抗議に出ました。
もちろんその間、僕らは空気と食物から娘を守り続けた。
すべて完璧ではないが、出来ることはした、つもりです。
さて、これからどうするか。
妻は今月からパートをお休みしています。
月に数度行ければと、箱根での保養を始めました。
次の予定も決めています。
5月、6月。7月には移住相談会に行くつもりです。
そして8月はまた長崎に行ってもらおうと考えています。
以前の疎開先が支援を再開しました。
出来れば一か月くらい。
そうです、8月の疎開前、7月には保養キャンプ行きたいねと話をしました。
行先はほぼ決定、2年前に行った、こだまの森です。
まだ八王子をぶち抜く圏央道は出来ていませんがそれでも3~4時間で行けます。
一週間くらいいけないかなと思っておりますが。
秋以降、妻がパートを再開するのか、一気に移住に話が進むのか、そこはまだ未定です。
この動きは、僕は来年4月までだと考えています。
4月からは娘は幼稚園です。どこの幼稚園に行くか、今はまったくわからず、候補は東日本を除く、全世界に広がっています。
4月までに形を決めなければならない。
今の僕の一番の仕事はそれです。
幼稚園問題は早く解決しないとと思っています。
娘に迷惑がかかります。
また娘に怒られますので。
次回に続く。